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人生は長い。second.

人生は長い。
そう思うようになったのは、本当に最近のことだった。
 
これまで私は、人生を生き急いできた。
これまで、と言っているが
これまでも 今も たぶん、これからも 生き急ぎ続けるタイプの人間だと思う。
こればっかりは人間の性分なのでなんとも変えようが難しい。
性格を完全に変えるには10年かかるといわれるほどなので、
やっと出来上がった穏やかな私は37歳になる。
まさしく、生き急いでそうな年齢だ。
 
 
 
人生は長い、そう思えるようになったのは
2回目の転職活動をしていた2023年の冬だった。
 
 

 
私の友人はシェアハウスをしている。
シェアハウスと聞くと、6人ぐらいの男女が入り乱れる…あの風景を容易に想像するが、
女子2人の共同生活なので 皆が思っているのとは少し違う。
 
友人同士でシェアハウスをしており、私は2人とも もともと仲が良いので、よく遊びに行く。
遊びに行く、という表現より 話を聞いてもらうために 現実から逃げるかのように、行く。
シェルターと呼ぶ方が正しい。
 
私はシェルターに着くなり、爆速で話し始める。
最近あった楽しいこと、悲しいこと、むかついたこと、腹抱えて笑ったこと。
彼女たちは、うんうん・・と優しい目と心で話を聴いてくれるので、
いつも話しているうちに全身が癒される。
 
その日、私は広告代理店で勤めながら、転職活動を行っている 最近の自分について語った。
 
転職活動は、自分を丸裸にする。
見たくない自分まで見えてくる。見たくなさすぎる。
過去2回の転職活動で完全に把握したが、私は自己評価がかなり高い人間 だった。
これくらいは自分にはできるだろう、と自分への期待が高い。努力をすれば出来ないことなんかない、と思っているタイプだった。
その期待は、時に自分を強く絞めつけてくる。
 
 
私は面接がとても苦手だった。
 
面接でうまく自分をアピール出来なかったら落ちてしまう、ということを認識したときに、
転職なんかしないで辞めることをやめたい、という気持ちでいっぱいになる。
自分という人間を、たった15分で最大限にアピール出来ないと、不合格 つまり、
(仕事も自己表現も)出来ない側の人間 という印を押される。押されたくない。
出来ない という印を押されること、落ちるくらいなら、
受けない 方が、この会社に入ることができる可能性は残される、であれば
今は受けないほうがいいのではないか。
 
しかし、面接日程の変更はなされず、面接を受けることになる。
 
面接中、
「ここでミスしたら、私は落ちる。落ちるということは、この会社に入ることが出来る可能性は最低でも1年は遠のく。落ちたことを周囲の人に話すとき、みんなどんな反応をするのだろう。恥ずかしい。話さなければよかった。あ、え、今この人なんて言ったっけ?この人ちょっと今私のこと残念だな、って思ったな。あ、私今緊張している、緊張して真っ白だから何言っているかわからなくなってきた、あーーーーーーー落ちるーーーーー」
と、頭と口が並行して違うことを考えてしまうのだ。
 
 
結果、何もないのに
「出来なかったら人生終わり」という感覚がはっきりと芽生える。
 
 
出来ない、ということを目の前にしたときに、逃げ出したい、という気持ちでいっぱいになる。
出来る/出来ない の判断で 出来ない側の人間 という印を押されたくない。
出来ない の印を押されるくらいなら、やらない方が、出来る の可能性が残されている、と思って逃げ出したくなる。
 
しかし、目の前に迫るアクションのタイミングは、待ってはくれないので、
する、ことになる。
 
出来ない はずなのに、出来ない ことを証明されるのは怖いので、
出来る 側の人間にならなくては、と無言虚無のプレッシャーが私を押しつぶそうとする。
 
 
出来ない 自分が恥ずかしい。
自信がない。何も自分には出来ることはないと思う。
人より秀でている部分なんてないし、自分にだけの特性なんて考えられない。
このままいくと、この人生何も成し遂げないまま死んでいってしまう、気がするんだ。
何もないまま死にたくないのに、その思いが自分を何もないままの自分で死なせようとする。
 
 
 
そんな ことを、2人に話した。
今思うと、いや、その時も認識はしていたけれど、
激やばメンヘラ女ちゃん的思考を開示した。
ときたま発動する内なる乙女を完全開示した。
 
 


 
 
 
私の話を、黙って聞いたあと、
友人の一人が、ボソッと言った。
「最近、考えてたんだけど、人生って想像以上に長いと思うんだよね。
100年時代。100歳まで生きられるようになってしまうんだから、失敗しても大丈夫じゃない?あなた27歳でしょ。死ぬまでにあと3倍くらい生きなきゃだよ。まだまだ時間あるって」
 



 
 
その時の私には、大きすぎる一言だった。
失敗してもいい。私まだ27歳だから、単純計算あと73年生きなきゃだし。
素直にそう思えた。
何回失敗してもいい、やり直せばいい、大丈夫長い、そう心から思えた。
これまで何度も自分に言い聞かせてきたはずだったのに、全く聞こえていなかった声が、
自分の奥の奥まで通った感じがした。
 
 
その言葉をもらってから、本当に心が軽くなった。
失敗してもいい、って本当に思えるようになった。
失敗して悩んで進もうとする自分も、これから先の長い人生には必要かも、とまで思えた。
 
 
 
20代後半、ライフスタイルの変化によって、なんとなく人生のステップを踏まなければいけない節目を感じてしまう。
だが、人生は思った以上に長いのだ。
 
どちらにせよ子どもを育てたいと考えているなら、
年取って時に子育てするのよりも、20代後半で子供を産んだ方が、体力的には楽だよ~
などと、誰の基準なのか不明確な身勝手な意見を浴びせられ続けた結果、
自分の中でいくつもの節目を勝手に作ってしまっていた。
 
節目なんて、自分で作るものなので、誰かに作られるものではない。
社会の一般的な節目に沿って生きていくような人間に憧れていないはずなのに、いつの間にか忘れてしまっていた。
成し遂げること何もないままには死にたくないくせに、人と同じ人生ペースで生きていかなければ、ってどんな傲慢さなのか。
 




私の人生は私がジャックする。
まだまだ長い人生は自分のペースで楽しみたい。そうやって楽しむべきだと思う。
 
 




その日のシェルターからの帰路は、
いつも以上に温かく、高揚した自分を感じた。
 
 
 
 
(P.S.シェアハウス友人の二人、いつも本当にありがとう。不可欠)
 
 

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