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気難しい自分を必死に隠して生きてきた

「気難しいと嫌われる」
これが今日出てきた私の中にある思い込み。

私は小さい頃、親から「気難しい」と煙たがられて育った。

ASDとADHDの特性を持った発達グレーゾーン、いわゆる「非定型発達」であった私は何かと繊細で親は手を焼いていた。

そもそも母親自身がASD孤立型の特性を強く持っていたため子供に対する関わりが希薄で母性に欠けていた。母親自身おおらかに子育てできていなかった。

私は母親によってとても潔癖に、神経質に育てられ、その結果わたしはとても潔癖で神経質な子供に成長したのだけど、その潔癖で神経質な私の性質を母親は忌み嫌っていた。

そして私のことを「気難しい」、「真面目すぎる」、「正直すぎる」などといつも批判した。
「妹みたいにもっと大らかに、適当になれたらいいのにね」とよく言われた。

そして44歳になった今でも、なんと私はそのことに苦しんでいるのだった。

無意識のうちに「気難しい」自分を隠して、一生懸命フランクで大らかな自分を演じている。

そうしていれば母親に嫌われない。
もしも気難しい自分がバレてしまったら嫌われる!周りの人にも嫌われるし、なによりお母さんに嫌われる。

小さな子供にとって母親に嫌われることは「死」を意味する。母親に嫌われては生きていけない。だから「気難しい」自分を隠す私は必死だし恐怖に怯えている。


でも今になって分かるのは、母親が忌み嫌っていた私の特性、それは他でもない母親自身の特性であり、それを母親自身が許しておらず、必死に隠してきたものであった。

母親が必死に隠してきたことを小さな私が明らかにしてしまう。それは母親にとっては嫌で怖くて何よりも避けたいことだったのだろう。

結局私も母親もASDの特性があり(同時にADHDの特性もある)それが特性だと気付けなくて、一生懸命「定型発達」の人に近づこうと頑張ってきた人間なのだろう。

しかし特性は生まれ持っての気質であり、目の色や肌の色と一緒で努力で変えることのできないものだ。

特性は諦めて受け入れて、それをうまく調整して生きていく他ない。

それが「受容」だ。


自分を責めているうちは同じ特性を持った他人のことも許せない。

私と母親も分かり合えない。


それでも自分だけは自分のことを許してあげよう。

気難しい自分、繊細な自分、真面目すぎる自分、正直すぎる自分、不器用な自分、コミュ障な自分、スローな自分、マルチタスクができない自分。

できないことを努力するのではなく、できることをやっていこう。

気難しくて繊細なのは、感受性豊かであるということ。
真面目で正直すぎるのは、誠実で信頼に足る人物であるということ。
不器用でコミュ障でマルチタスクができないのは、一人の人と、一つの物事とじっくり向き合っていく力があるということ。


もう人生も後半戦。
自分の人生にないものを求めている時間はない。

自分に与えられたものを大切に大切に磨いていく。それが私にできる私の人生を大切に輝かせる方法だと思っている。


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