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いじわるをやめた日

私は意地悪な人間だった。

物事を斜めから見てはチクリと刺すのが得意だったと思う。

いわゆる皮肉。

そんな私を「毒舌で面白い」と思ってくれる人が周りに集まった。


「皮肉」を辞書で調べたら「意地悪」と書いてあった。


あぁ、そうだ。私は意地悪だった。





私は「皮肉」を母から教えてもらった。

母の操る言葉は、物事を正面から捉えるのではなく、少し斜めから間接的に風刺するような言葉で、それは幼い私にとって最高におしゃれで面白い言い回しだった。

そして何より、皮肉や悪口を言うと母が喜んだ。

普段は冷たい能面のような表情の母が、私の悪口に困ったように、でも嬉しそうに笑うのだった。


学校で起きた出来事を母に話す時も、楽しいことや嬉しいことを報告しても母は喜ばなかった。「ふうん」と言ってそっぽを向いてしまう。
私は一生懸命、嫌なこと、悪いことを探して報告した。そうすると母はよく聞いてくれた。寄り添ってくれることはなくとも、私に興味を持ってくれた。私はそれが嬉しかった。


私は母のために一生懸命に悪口を言った。
主に父親の悪口を言った。
母が言えない言葉を私が代わりに言ってあげていたのだと思う。

私は母を守りたかった。母が可哀想だと思っていた。悪口を言って反抗する私は父親から嫌われ、母親からも「言い過ぎ」だとか「正直すぎる」などと責められるようになった。








そうやって私は意地悪な人間になった。

物事の悪い面ばかりを見て皮肉や悪口を言う人間になった。








それが母からのコントロールだったと認識できた時、意地悪な私は、私からポロリと剥がれ落ちた。

あ、私じゃなかったんだ。

母に愛されたくて私が選択したものだったんだ。




もう要らないんだ、って思った。




私は意地悪でいたほうが母に認めてもらえたから、少なくともこちらを向いてもらえたから、私は自分で意地悪を選択してきた。

幼い私が「家」という閉じられた世界の中で生き延びるために必死で掴んだ蜘蛛の糸だった。



今の私は全く意地悪を言わない。言いたくない。意地悪なことをして一番傷付くのは自分自身だと分かっているから。

皮肉を言って、悪口を言って、そんな意地悪な私を私はずっと見てきた。そしてずっと傷付いてきた。

長い間自分で自分を責めて、自分で自分を傷付けてきた。





私はもう意地悪じゃなくなった。
もう意地悪する必要がなくなった。
誰かを貶める必要も、誰かに認めてもらう必要も、もうない。

私は私が苦しくない生き方を選択していいんだ。
真面目で素直で正直で優しい私になっていいんだ。

これからは一番近くで見ている私自身に恥じない生き方をしよう。
私が喜ぶ生き方をしよう。

私は私のための人生をこれから歩んで行く。

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