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第32回「小説でもどうぞ」応募作品:nullの臓器

第31回「小説でもどうぞ」の応募作品です。
テーマは「選択」です。
個人的にはお気に入りの出来なのですが、安定の落選です。
なかなか難しいですね。

nullの臓器

 ドナーカードの項目すべてにチェックを入れる。死んだあと、僕にとっては自分の内蔵など無用のものだからだ。
「ずいぶんとためらいがないんだね」
 僕の話を聞いて、妻が少しだけ悲しそうな顔をする。その妻に、僕は当然のように微笑んで返す。
「当然だよ。死んだら無用のものっていうのもあるし、僕は仮にも医者だ。僕の臓器で生きながらえる人がいるならよろこんで提供するさ」
 妻が僕の目をじっと見て笑う。
「臓器くじって知ってる?」
 くすくすと笑う妻の言葉に、きょとんとする。
「臓器くじってなんだい?」
 僕の問いに、妻は簡潔に説明してくれる。
 臓器くじというのは、臓器移植をしなければ死んでしまう患者が五人いたとする。その五人を救うために健康な人間をひとり殺して臓器を分け与えるのは正しいことかどうか。というのを考える思考実験らしい。
「あなたは、正しいと思う?」
「もちろん。例えば、僕ひとりが死んでも五人が助かるならその方が有意義じゃないか」
 これもまた当然といわんばかりに答える僕に、妻はこう言って笑う。
「あなたならそう言うと思った」
 そんな妻に今度は僕が訊ねる。
「君はどう思う? 臓器くじ」
 すると、妻は一瞬目をそらしてから、僕を見て人差し指を唇に当てる。
「それは秘密」
「なんだ、僕だけ話さなきゃいけないなんて、ちょっとずるいぞ」
 そんな話をして笑い合って、こんな時間がどうしようもなく愛おしかった。

 妻のことはなんとしてでも守り抜かなくてはいけない。僕はそう決意している。
 妻の血液型はRHnullのO型。どんな相手にも献血をすることができる希少な血液の持ち主だ。
 そしておそらく、その血液型故に妻の臓器は誰にでも移植することが可能だろう。
 そんな身体を持つ妻のことを狙う悪意あるやつはいくらでもいる。高額で売り払える臓器を持った妻を、臓器売買の被害者になどさせるわけにはいかない。だから、僕がなんとしてでも守り抜かないといけないのだ。
 正直言えば、僕は自分が死ぬことにためらいがない。必要とあればすぐに命を絶つ覚悟ができている。
 そんな僕を、この世に、この命につなぎ止めてくれている妻を、人間の強欲によって失いたくないのだ。
 妻と婚約したときからずっと心に決めていた。おじいちゃんおばあちゃんになっても一緒に手をつないで生きて、寿命を迎えるまで一緒にいるんだって。
 だから、妻が寿命を迎えるまで守り抜くと決意したんだ。

 ある日のこと、職場の病院に急患が運び込まれてきた。今度の患者はいったいどんな状態だろう。そう思いながら急患のところへ行くと、そこにいたのはぐったりと横たわった妻だった。交通事故に巻き込まれてひどく頭を打ち、意識不明になっているらしい。たしかに、頭には救急隊員が応急処置をしたあとがある。
 妻が目を覚ますよう、僕も他の医者も手を尽くした。手術もして妻の傷はすべて手当てされた。あらかじめ妻が自分で献血をしてためておいた血を輸血して血液量も戻った。けれども意識は戻らず、植物状態になってしまった。
 たくさんの管につながれて目を覚まさない妻を見て、急に目の前の光景が現実感を失った。どうしてこんなことに。おじいちゃんおばあちゃんになっても仲良く暮らすって約束したのに。
 そう、約束したんだ。だから僕は、このまま妻の延命処置をしたいと思った。

 それなのに、他の医者からこう告げられた。
「今この病院には、臓器移植をしないと死んでしまう患者が五人いる。
 言いたいことはわかるね?」
 どうして、どうしてそんなことを言うんだ。
 たいして知りもしない五人よりも、妻の方が僕には大事なのに。
 そう言おうとした瞬間、医者が僕にドナーカードを差し出した。すべての項目にチェックがついている。名前の記入欄には妻の名前がある。
「この人はnull型だったよね?
 この人の臓器なら、いま臓器移植を待っている五人にも適合するはずだ」
 目の前が暗くなる。機器の音だけがやたらと耳につく。でもその音がなにを意味しているのかはわからない。
 僕は選択を迫られている。夫である僕が、妻の命のありようを決めなくてはいけない。
 このまま目覚めない妻を生かして五人を殺すか、妻を殺して見知らぬ五人を生かすか。
 まさに臓器くじじゃないか。
 差し出すのが僕の臓器だったら迷わず差し出せただろう。でも、今求められているのは妻の臓器だ。
 いやだ。妻の臓器を誰にも渡したくない。そう思った。
 ひとりを殺して五人を救うのは正しいことだと思っていたのに。殺されるのが僕自身なら正しいことだと信じて疑っていなかったのに。差し出すのが妻の命となった途端、決断するのがひどく難しく思えた。

 そうか、あのとき妻が少し悲しそうな顔をしたのは、そういうことだったんだ。

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