Forget Me Not(第15章)

これは何?
 絵を描けなくなった画家である日向理仁を中心に、湖畔で起きた失踪事件の解明を試みるお話。

第15章
 吹き抜く風。氷柱の切っ先の鋭さが身体を射抜いてくる1月下旬朝。毎年、こうも耐え難い季節にも必死に抗って生き抜こうとする自分を愛しく感じる。希望を持って持ち続けている自分がまだ内にいることを思う。歯を食いしばって耐え抜くのはこの冬にも終わりがあるということ、そして同時に春がやってくることを経験的に知っているからだ。

 もしも。冬の終わりが春の始まりが閉じられて、1年というものが冬の僅かなグラデーションで囲まれてしまったなら。我々は自然の闇の中に永遠に閉じ込められた事になる。そうなってしまった世界線でも生きて抜け出せるよう、トレーニングを始めることにした。湖の実地調査も兼ねて。私はシューボックスの奥に放置されていたスニーカーの埃を手で払い、ネズミの糞を綺麗に掃除した。


 湖のランニングコースは3.8kmでぐるっと一周回れるようになっている。冬の怜悧な空気に巻かれた身体は知らず知らずのうちに保守的な態度を取るものである。いざ走ろうとすると、身体の節々が急に思い出したように痛み始める。昨日までに経験した打撃や切傷を暖炉の前で懐かしむことを懇求しているのだ。私はその温かで親切な誘いを、生暖かい世界の内側に籠ることを拒み、自分がより良い明日を願う自分自身であることを誇示する。誰に向かって?私自身に向かってだ。

 走り始めて40分ほど経っただろうか、コースの2周目に入ってからは次第に辺りが霧に包まれてきた。視界の悪さはいつものこと。あまり気にせずに走り続けているとだいたい30メートル先に小さな何かが立っているのが目に入った。

 その姿は小さな女の子のものだった。ちょうど、行方不明になった娘と同じくらいの背格好のー何をしているのだろうか、と疑問を持ったその直後、私は背筋が凍りついた。その凍った背筋にアイスピックで鋭く亀裂を入れられるような刺激に、私はかろうじて耐えた。
女の子の目の前にいる影ーいつか青葉が話していた、「黒いもの」ーそれは確かに「黒いもの」でありー私はセンダックの絵本世界に入り込んだような感覚を持った。「黒いもの」と対面している女の子は、夢遊病患者のように覚束ない足取りでゆったりと歩いていた。生気がなく、別の何かに主導権を盗られてしまっている。彼女の目的地は明らかであり、つまずきそうになりながらも確実に向かうべきものの方へ近付いていた。「黒いもの」の方へ。

 私は荒げた息を白く吐き出しながら全力で走った。すでに女の子は”助けなければならない対象”で、「黒いもの」は”あの事件の犯人”であるという構図が出来ていた。というよりもそうとしか思えない状況であったのだった。私は女の子のもとへ辿り着くとすぐに彼女を抱きかかえ、その場を走り去った。できるだけの速さで、できるだけ遠くへ。その時私は言葉を聴いた。耳で?心で?ともかく、かすれた弱々しい声を聞いた。
「パパ」
振り返ると「黒いもの」は消えていた。

サポートいただきましたお金は、主催勉強会(プログラミング)を盛り上げるために活用させていただきます^^