宇津保物語を読む 俊蔭Season3 #2
子、食物を求め山に行き童の助力を得る
こうしているうちに、年が返った。この子は、いっそう大きく聡明で賢くなってゆく。変化の者であるので、普通のおとなの人と同じくらいになって、人がこの子を見るに
「誰の子だろう。親は誰だろう。このあたりにいるはずだが」
などといって詮索するので、
(自然と知れ渡るときが来るに違いない。こう歩き回って人に見知られることはあってはならない。魚はこの川だけにいるわけではない。)
と思って、河原に下り、その川を渡って、北の方角を目指して行き、山に分け入ってみると、大きな童が土を掘って、物を取り出して、火を焚いて焼き集め、
また大きな木の下に行って、椎の実や栗などを拾い集めている。
この子を見て
「何しにこの山に来たのだ」
と尋ねるので
「魚を釣りに来たんだ。母上に食べさせようと思って」
というと、
「山には魚はいないよ。それに、生きているものを殺すのは罪だ。これを拾って食べろ」
と教えて、この掘り、拾い集めたものを与えて、この童はどこかへ行ってしまった。この子は「うれしい」と思って持っていって母に食べさせる。
その後は山に入って教えてもらった芋や野老を掘り、木の実を集め、葛の根を掘って母を養う。
雪が高く降る日、芋や野老のありかも、木の実のありかも分からなくなってしまったときに、この子は、
「わが身不孝ならば、この雪高く降りまされ」
というと、たいそう高く降った雪は、たちまちに降りやんで、日がうららかに照り、以前の童があらわれて、いつものごとく、芋や野老を焼いて調理して渡し、またいなくなった。
童=護法童子のようなものか。
野老=
ヤマノイモ科の蔓性の多年草。原野に自生。葉は心臓形で先がとがり、互生する。雌雄異株。夏、淡緑色の小花を穂状につける。根茎にひげ根が多く、これを老人のひげにたとえて野老とよび、正月の飾りに用い長寿を祝う。根茎をあく抜きして食用にすることもある。
(大辞泉)
~「野老」と書くのは、その髭根を老人の髭に見立てたからで、海老にたいして野老、ノノオキナとも呼ばれた。この芋がきわめて長いので長命を連想させ、毎年掘り出す普通の芋に対し長く土中においておくほど大きくなるところから、年をとるほど栄える縁起物とされる。(精選版 日本国語大辞典)
2人暮らしの2年目。かぞえ6歳。「変化の者」だから、など行ってしまえば元も子もない。たしかに仙人の生まれ変わりのはずだが、でももうちょっと他の言い方もあるだろうに。
さて、体ばかり大きい野生児みたいな若者がうろうろするので、さすがに「かわいい」などとは言えなくなってくる。人目にもつくし、不審にも思われる。どこまでも人目を避ける親子である。
近所の川では具合が悪いと、山にゆく。芋や木の実を焼いて食べることを童に教わるのだが、はて、いままで魚はどうやって食べていたのだろう。母が調理するとは思えないし、5歳の子が魚をさばいて焼いたのか?生で食べた?まあ、おとぎ話だからつっこまない方がいいか。
芋や木の実は魚よりもはるかに食べやすいので、だいぶ楽にはなったかな。
野老は苦く現在では食べることは少ない。根には髭が生えており、そこから名前がついている。そのため野老は長寿の象徴となり、めでたい食べ物である。葛の根は、そこからデンプンを取り、葛餅、葛湯の原料となる。「葛根湯」というごとく、漢方薬の原料でもある。
これらを単に芋や木の根とせず、「野老」「葛」とはっきりと名を上げて書いているのは、なにかしらの意味が込められているのだろうか?
そして冬。
例の「私が孝の子ならば~」の決めゼリフ。ばっちり効果を現し芋ゲット。2年目になると慣れたものである。
熊、子の孝心に感じて杉のうつほを譲る
こう遠い距離を歩くのも苦しく思われて、
(なんとかしてこの山に暮らすのにちょうどいい場所がないかなあ、近くでお世話したいなあ)
と思って、山に深く入ってみると、たいそうりっぱな杉の木が4本、ものを合わせたように立っていて、大きな家くらいの隙間が空いているのを見て、この子が思うには
(ここに我が親を据え申し上げて拾い集めた木の実をまっさきに食べさせたいなあ)
と思って近寄ってみると、恐ろしい熊夫婦が子供を育てながら住むうつほであった。
熊が走り出て、この子を今にも食べようとするときに、この子が言うには
「ちょっと待って!私を殺さないで!私は孝の子です。親兄弟もなく使用人もいなくて荒れてしまった家にたった一人で住んで、私が差し上げる食べ物を頼りにしている母を持っているのです。里では生活するすべもないので、このような山の木の実や葛の根を取って、親に食べさせているのです。高い山、深い谷を上り下りして歩き回り、朝に家を出て夜帰るのでさえ心配で悲しくなってしまいますので、このような山の王が住んでいらっしゃるとも知らず、この木のうつほに母を据え申し上げて芋ひと筋を掘り出して差し上げよう、また、遠い道を親のために歩くのは苦しくはないけれど、所在なく私の帰りをお待ちになっている母のことを思うと悲しくて、「どこか近くで」、と思って見ておりました。しかし、このようにあなたが所有していらっしゃるところであるならば、立ち去ります。もし私が死んでしまったならば、親も死んでしまうでしょう。私の体の中で、親を養うのに不要のところがあれば、あなたにさしあげるのですが、足がないと、どうやって歩けはよいか。手がないとどうやって木の実や葛の根を掘ればよいか。口がないと、どうやって気持ちを伝えればよいか。腹や胸がないと、どこに心が置けるかしら。そうなると、私の体の中で無駄なところは、耳たぶと鼻の先だけですが、これを山の王の捧げ物としましょう」
といって涙を流していうと、熊の夫婦は荒々しい心をすっかりなくし、涙を落として、親子が不憫なことを知って、二匹の熊は子供を引き連れてこの木のうつほをこの子に譲って、別の峰に引っ越した。
魂通ふ=気持ちを伝える
「孝の子」砲がここでも炸裂。まさに無敵。熊さえも感動させてすみかをゲット。
「耳と鼻だけ差し上げます」というのも譲歩になっているのか?と思えるほどの饒舌ぶりである。もしや熊たちは、この饒舌に煙に巻かれてしまったか。
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