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宇津保物語を読む5 吹上 下#1

吹上Season2

吹上下は、吹上上から四ヶ月後の8月中旬から始まる。
タイムラインでは、「祭の使」の巻がこの間に収まる。構想や執筆順などは考えても仕方がないのは前述したとおり(アベンジャーズ説)であるが、小学館日本古典全集では「吹上上」「祭の使」「吹上下」の順になっている。
琴に注目して、読んでいこうと思うので、「祭の使」はパスします。

仲頼、吹上の有様を院に奏上御幸の準備

 かくて、八月中の十日のほどに、みかど、花の宴したまふ。上達部、親王みこたち、残りなく参りたまひて御遊びしたまふ。帝、「年の内、木草の盛り、秋のほどにいつか」と問はせたまふ。蔵人の少将仲頼奏す、(仲頼)「野の盛りは八月中の十日、山の盛りは九月かみの十日のほどになむ」。(院)「野山の中には、いづれかおもしろき」。仲頼奏す、(仲頼)「近きほどには、嵯峨野、春日野、山は小倉山、嵐山なむ侍る。草木などは、心生ひに生ひたるはつたなきものなり。人ちかにてあした夕ベ撫でつくろひたるなむ、姿、有様情け侍る。花紅葉などは、しか侍らぬものなり」と奏す。(院)「今年は、あやしく木の葉の色深く、花の姿をかしかるべき年になむある。興あるをかしからむ野辺に、たか入れて見ばや」とのたまはす。仲頼、「しか侍る年になむ。木の葉まだきに色づきて、同じ露、時雨もげに心ばへ殊なる。つかさの大将、ぞう引き連れて、大原野にまかりて侍りしに、その野、いといみじきほどになりにて侍りき」。上、「いとをかしきことかな。いかめしきせうえうなどする、ゆゑあるわざなりかし。さて何ごとかありし」。仲頼、「殊なること侍らざりき。あまたが中に、こともなき小鷹一つなむ侍りし」。上、「かの鷹を試みばや。入り所のをかしからむ、思ひ出でよや」。仲頼「仲頼が見たまふるは、先に奏しはべりしくになむ侍る。十六の大国にも、さばかりの所やは侍らむ」。上、「そや、さることぞや。いとゆかしけれ。たれかれもしか奏せしかど、いかでかはかしこまではものせむ。いと所きうちに、例なきことにもこそ」とのたまはすれば、右のおとど、(忠雅)「などか、そはおはしまさざらむ。からの国の帝は、とほがりしたまふとては、十、二十日こそは。四、五日のほどは、いとよくおはしましなむ」と奏したまへば、御気色よくて、院「さらば」などのたまはす。これかれ、「このごろこそ、草木の盛りに侍れ。衰へざらむさきに御覧ぜさせばや」と聞こゆれば、(院)「よろしく定めてものせむかし」とて、ざえある人ある限り、かたちを選びたまふ。「九日の宴は、かしこにて聞こし召さむ」とて、文章生などさぶらはせたまふ。すゑふさかしこき者と聞こし召して、さぶらふべきよし仰せたまふ。大将殿、装束、馬、鞍よりはじめて、出だし立てたまふ。

(小学館新編日本古典文学全集)

 さて、8月中旬のころ、帝(嵯峨院)は、花宴をなさる。上達部や親王たちがすべて参上なさり、管弦の催しをなさる。
嵯峨院「年内の木草の盛りは、秋ではいつ頃になろうか。」
とお尋ねになる。
蔵人の少将仲頼が奏上する。
「野の盛りは8月の中旬、山の盛りは9月の上旬の頃でございます。」
院「野山の中では、どこが面白いだろう。」
仲頼「近いところでは嵯峨野、春日野、山では小倉山、嵐山でございましょう。草木などは野生そのままではみすぼらしいものです。人里近くで、朝夕手入れがされているものが、姿、様子も風情がございます。桜や紅葉はその限りではございませんが。」
院「今年は不思議に木の葉の色が濃く、花の咲きぶりも風情のある年であった。興があり風情のある野辺に小鷹を飛ばしてみたいものだ。」
仲頼「今年はそうでございました。木の葉が早くも色づいて、例年と同じ露、時雨であっても、たしかにいい雰囲気でございました。近衛府の大将正頼殿が一族を引き連れて大野原にまいりましたが、その野の様子などは、たいそうすばらしいものでございました。」
院「たいそう興味深い。盛大に逍遙などをするにも趣のあることだ。して、なにか面白いことはあったのか。」
仲頼「特になんということもございませんが、たくさんの鷹の中に、優れた小鷹が一羽ございました。」
院「その鷹を試してみたいものだ。適当な場所はないかの。」
仲頼「私の思いますには、以前申し上げました紀伊国でしょうか。世界16の大国にもこれほどの所はございません。」
院「そうだ。そうだった。行ってみたいものだ。ほかの者たちも申しておるが。さてどうやって行けばいいのだろう。たいそう窮屈な身の上であり、都を離れることは例もないことだしなあ。」
などとおっしゃると、右大臣忠雅殿が、
「どうしてそのようなことがございましょう。唐国の帝は遠狩りをなさるといっては、10日20日は都を離れるといいます。4、5日くらいなら問題ありますまい。」
とおっしゃるので、院はぱっと表情も明るくなり、「では、そうしようか。」などとおっしゃる。
人々は、「今がちょうど草木の盛りでございましょう。衰えないうちにご覧に入れたい。」
と申し上げると、院は「よき日を定めて出発しよう。」とおっしゃり、同行する文才もあり、容貌の整った人をお選びになる。
「9月9日の宴はそちらでするとしよう」と文章生なども集めなさる。なかでも季英が優れたものだとお聞きになり、同行するようにと仰せになる。季英の後見人である左大将殿が、装束や馬、鞍をはじめとして準備なさり、送り出す。


冒頭に「帝」とあるが、実際に吹上に行幸したのは嵯峨院であるので、今上の朱雀帝ではなく嵯峨院と解釈する。
上皇になれば身分的な制約も少なくなり、行動の自由も増すはずであるが、それでも都を離れることには躊躇したか。

嵯峨院は涼の実父。ついに親子の対面である。

最後に出てくる季英は、藤原季英(藤英)、「祭の使」に登場する苦学生である。左大将正頼によって才能を見いだされた。今後の活躍が期待される人物である。

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