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宇津保物語を読む 俊蔭Season4 #1

秘琴の伝授がなされたあと、物語は次のフェーズへと進む。

東国の武士来襲秘琴の奇瑞で難を免れる

 かかるほどに、東国より都にかたきある人、報いせむ、と思ひて、四、五百人のつはものにて、人離れたるところを求むるに、この山を見めて、おそろしげにいかき者ども、ひとやまに満ちて、目に見ゆる鳥、けだもの、いろをも嫌はず殺し食へば、鳥、獣だに山を離れて逃げ隠るるに、隠れどころもなき木のうつほに、親子籠りて、草木をも食ふべきたよりなく、あめつちをもながめ見るべくもあらず、いみじきときに、年ごろ養ひつる猿、なほこの人をあはれと思ひて、武士もののふの寝静まるをうかがひて、青つづらを大きなるに組みて、いかめしき栗、とちを入れて、蓮の葉にひややかなる水を包みて来るに、木のもとごとに臥せる武士もののふども、猿の渡るとも知らで、の葉のそよぐにおどろきて、(武士)「ここに山のものの音す」とて、そこらの人、火をともしてののしるに、せむ方なし。母の思ふほどに、わが親は、この二つの琴をば、幸ひにも災ひにも、極めていみじからむとき、弾き鳴らせ、とこそのたまひしか。われ、今よりまさりていみじき目をいつか見む。さはいへど、かくばかりにやはありつる。これこそ限りなめれ、と思ひて、このなん風のことを取り出でて、一声弾き鳴らすに、ぬしの七人の人の調べし声にいささか変はらず。一声かき鳴らすに、大きなる山の木こぞりて倒れ、山逆さまに崩る。立ち囲めりし武士もののふ、崩るる山にうづもれて、多くの人死ぬれば、山さながら静まりぬ。なほ明くるむまのときばかりまで、ゆいこくの手を折り返し弾く。

(本文は小学館新編日本古典文学全集)

このような時に、東国から都に敵がいる人が報復をしようと思って、4、5百人の兵をつれて、人里離れたところを探し求めていた時、この山を見つけ、占有しようとして、恐ろしげで厳つい者たちが、山中に満ち、目にした鳥や獣を種類を問わず殺して食べたので、鳥や獣でさえ、山から離れ逃げ隠れるのに、隠れるところもない木のうつほに親子は隠れて、草木を食べる手立てもなく、外の様子を見渡すこともできず、たいそう辛い思いをしている時に、長年世話をしてくれていた猿が、それでもこの親子をあわれに思い、武士たちが寝静まる様子をうかがい、青つずらを大きな籠に組んでたくさんの栗やトチの実を入れて、蓮の葉に冷たい水を包んで持って来たが、木のあちらこちらで横になっていた武士たちが猿か通る音とも知らず、木の葉がそよぐ音に驚いて、
「ここに山の物の怪の音がする!」と
そこら中の人が火を灯して大騒ぎしするので、猿の親子はどうすることもできない。
 いっぽう、母が想うには
「お父様はこの二つの琴を、幸いでも、災いでも、際限ない様に達した時に彈き鳴らしなさいとおっしゃったのだわ。私は、これ以上の辛い目を見る決してないでしょう。今までだって、これほどではなかったわ。いまこそがその極限の時なのでしょう。」
と思ってこのなん風の琴を取り出して、一声弾き鳴すと、波斯国の山の主七仙人の奏でた音に少しも変わることはない。
一声かき鳴らすと大きな山の木がすべてなぎ倒され、山は逆さまになったように崩れた。親子を取り囲んでいた武士たちは崩れる山に埋もれて多くの人が死んだので、山はもとのままに静まった。母はそれでも明くる日の正午までゆいこくの手を繰り返し弾いていた。


都に攻め入ろうとする東国の武士は、平将門がモデルか。
全集の注では

「天慶の乱で誅された将門の子が報復のために都に入ったということで、検非違使までが探索に当ったという天徳四年(九六〇)十月ごろのことが意識されているとみたほうがよいであろう」

となっている。

平安時代の武士の騒乱は平将門、藤原純友の乱くらいしか私は知らない。歴史の教科書でもネットで検索してもとくに出てこない。教科書に載るような大きな事件でなくても、地方では山賊や海賊のたぐいはあっただろう。都でも強盗はあったようだし、それなりに物騒な時代ではあったのだろう。それを作者は誇張して4、5百人の武士団を構想したのだろうか。

私の物語論

さて、俊蔭が娘に残した遺言は以下の通りであった。

「このいぬゐすみかたに、深くー丈掘れるあなあり。それがうへしたほとりには、ぢんを積みて、この弾く琴の同じさまなる琴、錦の袋に入れたる一つと、かちの袋に入れたる一つ、錦のはなん風、褐のをばはし風といふ。その琴、わがこと思さば、ゆめたふたふに人に見せたまふな。ただその琴をば、心になきものに思ひなして、長き世の宝なり、さいはひあらば、その幸極めむとき、わざはひ極まる身ならば、その禍限りになりて、命極まり、また、とらおほかみくまけだものにまじりて、さすらへて、獣に身をしつべくおぼえ、もしはともつはものに身をあたへぬべく、もしは世の中に、いみじき目見たまひぬベからむときに、この琴をばかき鳴らしたまへ。もし子あらば、その子、十歳のうちに見たまはむに、さとく賢く、魂ととのほり、ようめい、心、人にすぐれたらば、それに預けたまへ」

とらおほかみくまけだものにまじりて」や「ともつはものに身をあたへぬべく」とは今の状況とぴったりである。だいたい今の山暮らしがイレギュラーなのであり、都にいてこんな状況に陥ることは考えられない。それなのにこんな遺言を俊蔭は残した。まるでこうなることを知っていたかのように。俊蔭には予知能力があったのだろうか。

「俊蔭に予知能力があった」というのも妄想としては面白い。
また作者がこの場面まで構想の中に入れていたならば、露骨な伏線張りである。

そして私なりの物語論としては、このシーンを描いてから、俊蔭の遺言のセリフを書き加えたのではないか、または、このシーンが別の物語として先に世に流通していて、それを作者が取り入れたのではないか、と思うのだ。

物語は、絶えず語り継がれる中で変化してゆく。作者が手を入れることもあるだろうし、読者が手を入れることだってありうる。世の中に散らばっている物語のピースをあつめて一つの物語を作ることだってある。コピーライトなどというものはないのだから、“作者一人の個性により構想された”と考えない方が「物語」というものを考える上ではいいのではないか。
宇津保物語を読むとそう思えてならないのだ。

「ファーストガンダム」が失われた時代の「ガンダムエース」

 ふと思いついたので、書いてみる。

 1000年後、富野監督の「機動戦士ガンダム」のビデオが失われて見ることができなくなったと仮定しよう。そして「ガンダムエース」という雑誌が発掘されたとする。
 その時代の研究者は「ガンダムエース」に書かれていることから、失われた「機動戦士ガンダム」という物語があったことを知る。そしてその再構築に挑戦する。

「『ユニコーンガンダム』は同じ作者による続編だろうか、それとも別人の手によるのだろうか」などという論争が起きるかもしれない。
また、「THE ORIGIN」を発掘した研究者などは小躍りして「これぞオリジナルのガンダムだ!」と論文を書くかもしれない。でも、これはとても大きな落とし穴だ。「THE ORIGIN」は非常によく似ているが、決して富野監督が書こうとした世界ではない。似ているだけにたちが悪い。

今、私たちが「源氏物語」や「宇津保物語」に対して、していることは、これと同じではないだろうか。(「狭衣」や「寝覚」はよりそれに近いかもしれない。)

作者が最初に書いた作品がオリジナルであり、それ以外は二次創作でしかないとするならば、この営みは徒労と終わるだろう。絶対にオリジナルにはたどり着けないからだ。

しかし、考え方を変えて、二次創作も含めたすべてがその「物語」だとしたならばどうだろう。

二次創作や研究者による論考、すべてを包括したものが「物語」だとするならば、時代を経るに従って、その作品は絶えず変化し、その価値は深まってゆく。

「源氏物語」は多くの二次創作を作り出している。リライト、続編、劇化、換骨奪胎、歌道、茶道、源氏香なんてものもある。いまやこれらすべてが芸術作品として認められている。これらをすべて「源氏物語ワールド」として一つの世界としてみてはどうだろう。

コピーライトという概念を捨てた時、芸術の見方は変わるかもしれない。

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