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宇津保物語を読む 俊蔭7
俊蔭、さらに西に行き、七仙人に会う
俊蔭、天人ののたまふにしたがひて、花園より西をさして行けば、大いなる河あり。その河より孔雀いできて、その河を渡しつ。琴をば、例の旋風送る。それより西へ行けば、谷あり。その谷より竜いできて越しつ。琴は旋風送りつ。それより西をなほ行けば、険しき山七つあり。その山より仙人ありて越しつ。それより西を行けば、虎狼ひと山騒ぐところあり。象いできて、その山を越しつ。それより西へ行けば、七つの山に七つの人ありて、言ひしがごとくに住むところに至りぬ。
敏蔭は、天人の言葉に従って、花園から西を目指して行くと、大きな河がある。
その河から孔雀が現れて、その河を渡してくれた。琴を例のつじ風が送る。
そこから西に行くと、谷がある。
その谷から竜が現れて、越してくれた。琴はつじ風が送る。
そこから西になお進むと、険しい山が7つある。
その山から仙人が現れて、その山を越してくれた。
そこから西に行くと、虎や狼が山中でさわぐところがある。
象が現れて、その山を越してくれた。
そこから西に行くと、7つの山に7人の人がいて、天女が言っていたとおり、暮らしているところに到着した。
西へ西へと進む。様々な困難が立ち塞がるが、神仏の加護によって乗り越えて行く。
同じ言葉の繰り返しが、語り言葉としてリズムを持ち面白い。童話的な表現である。
俊蔭を助けてくれるものは、孔雀・竜・仙人・象。仙人は霊獣扱いか?
一つといふ山を見れば、栴檀の木の木陰に、林に花を折り敷きて、琴ひく人、歳三十ばかりにてあり。俊蔭、立ち居拝む。山のあるじ、大きにおどろきて、「これは、何ぞの人ぞ」。俊蔭答ふ、「清原の俊蔭、参り来つることは、しかじかのたまはせしかばなむ」。このときに、山のあるじ、「あはれ、蓮華の花園、おのが親の通ひたまふところよりか。日の本の子と見れど、花園よりと聞けば、仏の通ひたまはむよりも尊く」とて、同じ木の陰にすゑて、事のよしを詳しく問ひたまふ。俊蔭、はじめよりのことを詳しく申すときに、旋風、例の、琴どもを、みな同じごとく置きつ。
一つめの山を見ると、栴檀の木の木陰に林に花を敷き詰めて、琴を弾く、年は30歳くらいの人がいた。俊蔭は立ったり座ったりして拝礼する。
山の主はたいそう驚いて、「これはどういう人か」。
俊蔭は答える。「清原の俊蔭、参上いたしましたのは天女がこれこれとおっしゃったので……」
このとき、山の主は「ああ、蓮華の花園、我が親の通いなさるところからか。日本の子ではあるけれど、花園から来たと聞けば、仏がここへお通いになるよりも尊いことだ。」
といって、同じ木陰に座らせて、事の次第を詳しくおたずねになる。俊蔭は初めから詳しく申し上げているときに、つじ風が例の琴を、以前と同じように置き並べた。
「立ち居拝む」がしっくりこない。挨拶ならば、立つなり座るなり落ち着いてするだろうに、立ったり座ったりでは落ち着かない。たとえば、「立ち止まって座る」とか「居る」を止まるとして「立ち居」で「立ち止まる」とするのはどうか。
ここもまた栴檀の林である。他の木はないのか? 3つめはちょっと芸がないなあ。
そのときに、山のあるじ、俊蔭が琴の音を試みて、かなしびたまひて、俊蔭とつらねたまひて、二つといふ山に入りたまふときに、その山のあるじ、めづらしがりたまふ。客人の聞こえたまふ。「あやしう、蓮華の花園よりといふ人のありつれば、母の恩のかなしく、乳房の恋ひしさになむ率て参りつる」とのたまへば、あるじあはれがりて、三人つれて三つといふ山に入りたまふ。そこにも同じごとのたまひて、四人つれて四つといふ山に入りたまふ。そこにも同じごとのたまひて、五人つれて奥へ入りたまふ。そこにも同じごとのたまひて、同じごと六人つれて入りたまふ。そこにも同じごとのたまひて、七人つれて入りたまふ。
そのときに、山の主は、俊蔭の琴の音を試してみて、感じ入りなさり、俊蔭と連れだって二つめの山にお入りになると、その山の主、珍しがりなさる。
一つめの山の主が申し上げなさる。「不思議にも蓮華の花園から来たという人がいたので、母の恩情いとしく、乳房の恋しさにより、連れて参りました。」
とおっしゃると、主は感動して、3人連れだって三つめの山にお入りになる。
そこでも同じことをおっしゃって、4人連れだって四つめの山にお入りになる。
そこでも同じことをおっしゃって、5人連れだって奥へお入りになる。
そこでも同じことをおっしゃって、同じように6人連れだってお入りになる。
そこでも同じことをおっしゃって、7人連れだってお入りになる。
ここも同じ言葉の繰り返し。童話的な表現。
母が恋しいことを、「乳房」とはずいぶんと直接的な表現。30歳のおじさんの言葉ですよ。ネットで検索しても、「乳房」の古文での用例は見つけることはできなかった。(乳房をネット検索している姿は、ちょっとアブナイけれど……)
永遠の未完成としての「語りの文学」
俊蔭の琴が並べられます。特になん風はし風は7仙人の前でしか弾いてはいけないと言われています。その琴を一人めの仙人が試します。あとは語られていませんが、この琴が阿修羅の手により作られ、俊蔭が正当な継承者であること、また天女から琴の手を習得するように言われたことが確認されたのでしょう。そこで天女の言葉通り、俊蔭に琴の技術を伝授するため兄弟たちを集めることとなります。それを「かなしびたまひて」という一言で済ませています。
語りの文学においては、語り手と聞き手の間でやりとりされる会話によって具体的な内容は補われたのかもしれません。とすれば、「語りの文学」においては、必要な情報以外の当然思いつくはずの内容は、語り手と読者に委ね、文字にはならなかったのかもしれません。「語りの文学」は永遠の未完成だといえます。
孔雀と象
孔雀は毒蛇を喰う
「コトバンク精選版日本国語大辞典」の「孔雀」の項には
「(前略)~「日本書紀」に推古天皇六年(五九八)新羅が孔雀一羽を貢献した記録があり、その後もしばしば日本に渡来しているが、数が少ないので珍鳥とされ、江戸時代、寛永(一六二四‐四四)ごろから京都の四条河原をはじめ各地で見世物として客を集めた。くざく。〔十巻本和名抄(934頃)〕」
さらに同じく「コトバンク 日本大百科全書」の孔雀明王の項には次のような説明がある。
「明王の一つ。インド起源の孔雀仏母(ぶつも)像で、猛毒蛇を食い殺す孔雀を神格化したもの。サンスクリット語でマハーマユーリービドヤーラージニーMahāmayūrīvidyārājñīといい、摩訶摩瑜利(まかまゆり)と音訳する。「孔雀王」または「仏母大孔雀明王」ともいう。不空訳『仏母大孔雀明王経』によると、この明王の大陀羅尼(だらに)を誦(じゅ)すると、蛇毒をはじめ、いっさいの諸毒による怖畏(ふい)、災難を滅し、安楽を得ると説く。密教では孔雀明王を本尊として修する秘法を孔雀経法(きょうぼう)といい、四箇大法(しかだいほう)の一つにあげる。日本では奈良時代にすでに知られており、役小角(えんのおづぬ)も信仰していたと伝える。図像学上の特徴は、金色の孔雀に乗じ、白蓮華(びゃくれんげ)(または青緑色)上に結跏趺坐(けっかふざ)する四臂(よんぴ)像である。平安時代以降に信仰された作例として、金剛峯寺(こんごうぶじ)に蔵する快慶作の彫像、仁和寺(にんなじ)および智積院(ちしゃくいん)の画像が知られる。[真鍋俊照]」
なぜ象は「きさ」なのか。
日本に存在しない動物の和名があるというのも不思議な話だが、
「國學院大学 デジタルミュウージアム」にある「万葉神事語辞典」には「きさ」について次のような説明がある。
「動物の象の古名。象をキサというのは、象牙の横断面に橒(きさ)(木目の文)があるためである(『萬葉動物考』)。『和名抄』に「和名 伎左」とある。天智紀に「象牙(きさのき)」とあり、当時すでに象牙の輸入されていたことが知られる。『拾遺集』にも「きさのき」(巻7-390、物名)を詠んだ歌がある。その一方で、『名義抄』に「キサ キザ サウ」、『色葉字類抄』に「象 セウ 平声 俗キサ」とあり、平安期には「キサ」「キザ」の他に、「サウ」や「セウ」ともいったらしい。」
ちなみに「象」という漢字は象形文字。殷の時代には中国にも象はいたらしい。
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