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宇津保物語を読む5 吹上 下#4-2(春日詣)


忠こそ再登場

「忠こそ」の巻の終わりで失踪した忠こそは、「春日詣」の巻で再登場する。その場面を以下に紹介したい。

「春日詣」とは

 「春日詣」は「忠こそ」に続く巻である。年立としては、「吹上上」と同年の2月。最初に吹上に出かける直前となる。
忠こそ=37歳
正頼=47歳
仲忠=20歳
仲頼=30歳
あて宮=14歳

左大将源正頼が一族を引き連れて、母方、藤原氏の氏神である春日神社に参詣する。その様子が描かれている。
一族以外にも多くの貴族たちがそれに同行し、仲頼や仲忠も同行した。
盛大な歌会が催され、やがては楽も奏でられた。その中で、あて宮の弾く琴は、いっそう際立つものであった。

春日詣(全集p.269)

 興ある夕暮れに、女かたの御前に、君たちものの音かき合はせて遊ばす中に、あて宮、かの一条殿のを買はれたるみやこ風といふ琴を、胡笳こかの声に調べて、こくのめてたといふ手折り返し遊ばす。
 仲忠、こともなき御琴かな。少しまだ若くぞあんなる。いかならむ世に、わが手習はしたてまつらむなど、心地は空にて思ひたるほどに、かの忠こその行ひ人、かのくら山に大いなる寺を造りて、父母が御ために、いかめしき経、ほとけ供養し、人にものもいはで、ただ仏の御ことをのみ寝言にも口遊びにもしつつ行ふ。かのつきし人は、かしこき智者にて、大法など尽くして受けたりければ、それらをみな受けて、暗部をばさる修行したるところにて、六十余国を巡りて、神にきやう奉りて、近きところに詣づるに、この春日にも詣でて、一夜大般若おほぞうに読みたてまつりて、今は熊野に、と思ひて出づるに、この御前に遊ばす御琴の音する方に向きて、き足をいたして走る。
 遠くて見れば、いろいろのあけばりいろこのごとうち渡して、立ち騒ぐ人、うちまぜたる花のごと見ゆ。風にきほひて千々のものの音、交じりて聞こゆ。近く立ち寄りて聞くに、御随身、舎人とねりどもは、「何ぞの行ひ人ぞ。かうわざのところには出で来べきものか」などとがめののしれば、ただかくいひ立てり。
 (忠こそ)めづらしく風の調ぶる琴の音を
  聞く山人は神も咎めじ
といふを、仲忠聞きて、「いと興あるものかな」とて、あこめを脱ぎて、かくいひてかづく。
 (仲忠)みな人も衣脱ぎかけ
  松風の響き知りたる人やあるとぞ
うち被けて、御前よりかのみやこ風を賜はりて、同じき胡笳こかの声を、手を尽くして弾く。さらに手惜しまず。御前にて、興ある節会などに、御手づから調べて賜ふをだに、辞し申して仕うまつらぬを、かくすれば、聞こし召す人の限り、いとめづらしう興ありと思す。

(小学館新編日本古典文学全集)

 風情のある夕暮に、女性たちの御前では、姫君たちが楽器を合奏なさる。その中でも、あて宮は、あの一条殿からお買いになった「みやこ風」という琴を、胡笳こかの音に調子を合わせ、「こくのめてた」という技法で繰り返し演奏なさる。
 それを聞いた仲忠は、
「申し分のない演奏だが、少しまだ未熟な点はあるようだ。いつになったら私の技法を教えて差し上げることができるだろうか。」
などと、ぼんよりと思っていたのであった。

 ちょうどその時、あの忠こその行者が、その琴の音を聞いていたのであった。
彼は、暗部山に大きな寺を建て、両親のために厳かな経や仏を供養し、人とも口をきかず、ただ仏のことばかりを寝言にも独り言にもしながら修行していたのである。失踪した当時付き従った行者は、賢明な智者で、仏法の大法などをすべて教授したので、それらをみな習得し、暗部をしかるべき修行の場として、日本中を巡り、神に読経を奉りながら、この近くの神社にも参詣し、この春日大社にも参詣して、夜通し大般若経を読み申し上げて、これから熊野に行こうかと思って出発しようとしたところ、この御前で演奏される琴の音色に引き寄せられて、駆けつけたのであった。

 遠くから見ると、さまざまな仮屋が鱗のように張り渡してあり、そこでせわしなく立ち回る人々は様々な花を取りませたように見える。風に乗って多くの楽の音が混ざり合って聞こえてくる。近くに立ち寄って聞き耳を立てていると、御随身、舎人たちが
「どこの行者だ。神事が行われているところに出てきてはいかんだろう。」
などと咎め騒ぐので、忠こそはこのような歌を詠む。
  すばらしくも、風が演奏するかのように聞こえるこの琴の音を
  感動しながら聞いている山伏を、神もけっして咎めはすまい

そこに居合わせた仲忠はこの歌を聞いて「たいそう興味深い」と思い、衵を脱いで、こう歌って忠こそに取らせた。
  みなも衣を脱いで彼に被けようよ。
  松風の響きを聞き知る風流人がここにいるぞ

衵を被け、さらに御前からあの「みやこ風」をいただいて、あて宮と同じ胡笳の曲を技を尽くして弾く。いっさい手を抜くことはしない。帝の御前であっても、興ある節会などで帝みずから調子を整え、演奏するよう与えようとしても、ご辞退申し上げて演奏なさらないのに、このように自らすすんで演奏をなさるのを、同席した人々すべてが、ずいぶんと珍しく、興味深いことだとお思いになる。


胡笳(こか)=篳篥の古名。またその調べを琴の曲としたもの。
または、ごかのしらべ【五箇調・五個調】=琴(きん)の五種類の奏法。

この後、忠こそはあて宮の姿を見てしまい、恋い焦がれるようになり、その煩悩を払うために再び全国行脚に赴き、吹上でまた再登場となる。前回、

「(忠こそは)遥かに思ふまじき心つきて、そのあたりをだに今一度(たび)見せたまへと、六十余国を行ひ歩(あり)きける」
(あて宮を遠くから恋い慕うまいとの覚悟をしつつも、あて宮の姿をもう一度お見せくださいと、全国各地を修行しながら放浪していたのだった。)

とあるのは、そういう事情である。
(ちなみに仲頼はこの年の正月、賭弓の饗宴であて宮を見て、すでに恋煩いとなっている。)

なぜ「みやこ風」なのか

 あて宮が弾いていたのは、かつて忠こそが愛用していた「みやこ風」であった。
「一条殿から買った」となっているが、一条北の方の前夫、左大臣忠経が俊蔭から送られたのは「かたち風」であり、もし一条北の方が貧困のために処分したものだとしたら、それは「かたち風」であるはずなのでおかしい。また「みやこ風」は忠こそ失踪後、風に乗って天に巻き上げられたので、さらにつじつまが合わない。
 もっといえば、「みやこ風」は東宮の女御に贈られたものであり、忠こその父、橘千蔭に贈られた琴は「おりめ風」である。
 これを構想の破綻と見ることはできるが、つじつま合わせにこだわるよりも、私たちがみるべきは、現に「みやこ風」がここにあるということである。

「みやこ風」という名前の琴を忠こそは愛用し、
そしてまた今ここに「みやこ風」という名の琴があり、
それをあて宮が奏で、そして仲忠が奏でる。

「みやこ風」を中心とした深い因縁と必然。そこに私たちは思いを馳せるべきであろう。
「かたち(容貌)風」でもなく、「おりめ(織女)風」でもなく「みやこ(都)風」であること。
名前にはなんらかの意味があるのかもしれない。

 さて、仲忠はこの山伏が誰であるかは知らずに、それでも「みやこ風」にゆかりのある人物であると見抜き、特別に琴を披露する。
「名づけられた琴」に対して、仲忠はやはり特別なセンスを持っているのかもしれない。
そして、吹上の地で二人は再会するのである。

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