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宇津保物語を読む8 あて宮#3


仲澄、あて宮に会い、歌を詠んで悶絶する

 かかるほどに、(人々)「侍従の君、ひとおもても知らず、口惜しうなりぬ」とののしる。宮、おとど、かつは思し騒ぎ、かつは参りのこと思し急ぐ。大宮、つぼねにさしのぞきたまひて、(大宮)「ただ今はいかにぞや。この御参りのことどもものすとて、見たてまつらずや」。侍従、(仲澄)「限りにこそあめれ。今ひとたび、かの御方に対面を賜はらずなりぬること」と聞こゆ。宮、(大宮)「あなゆゆしや。などかさあらむ。さまれ、『今ものしたまへ』と、さものせむかし。今日はと思へど、あないみじや」とて、涙を流したまひて、あて宮に、(大宮)「侍従の、いと心細くものしつるを、渡りて見たまへ。ものの初めに、いとうたてと思へど、対面せむとものしつれば」などのたまふ。
 あて宮、心憂しとは思せど、宮聞こえたまへば渡りたまふ。宮、おとどの住みたまふ北のおとどに臥したまへり。あて宮、その頃、御かたちの盛りなり。丈五尺に今少し足らぬほど、いみじく姿をかしげに、ぐしのうるはしくをかしげに、清らなる黒紫の絹をやうせるごと、生ひたる限り、末まで至らぬ筋なし。めでたきこと限りなし。今日はまして、心ことに見えたまふ。兵衛の君、わうの君ばかり御供にておはしたり。
 侍従の君、見たてまつりたまひて、とみにものも聞こえたまはず。からうして、(仲澄)「今日や参りたまふ。御送りをだにえ仕うまつらずなりぬること。生きてまた対面賜はらむこと、難くもあるかな」と、涙を流して聞こゆ。あて宮、「心にもあらずのみなむ。いでや、などかはかくのみはものしたまはむ」。侍従、(仲澄)「なほ、え侍るまじきにこそ侍るめれ。よろづのこと、心細く悲しきこと」と聞こゆ。あて宮、「さな思し入りそ」とて立ちたまふ。
  (仲澄)臥しまろびからくれなゐに泣き流す
  涙の川にたぎる胸の火
と書きて、小さく押しもみて、御ふところに投げ入る。あて宮、散らさじと思して、取りて立ちたまひぬるを見るままに、絶え入りて息もせず。
 宮、おとど、あるが中にもかなしき子のかかるよりも、よろづのゆゑさはりをしのぎて思ひ立ちたまへる御参り延びむこと、このたびせずなりなば、つひにせずなりなむこと、と思すに、ただ惑ひに惑ひたまふ。(大宮・正頼)「あなかま。しばしものないひそ」とて、君だち、男、女、集ひたまひて惑ひ騒ぎたまふをも知らず、には御車どもをさうき設けたり。みな人ものも覚えず、さかしき人もなし。

(小学館新編日本古典文学全集)

 さて、話はまた仲澄の侍従にもどる。
 人々があて宮の入内に向けて気をもむ中、侍従の周りでは人々が
「侍従の君が、誰の顔も見分けられず、もう今にもどうにかなってしまいそうで」
と大騒ぎをしている。
母大宮や父左大将は、それを聞いて、どうしようかと思い嘆きはするものの、あて宮の入内の準備もせねばならぬので手が離せない。
そのような中、大宮は侍従の局をのぞいて、
「気分はどう?あて宮の入内の準備をしなければならず、あなたに構っていられなくて」と声をかける。
侍従は
「私はもう長くは持ちますまい。ああ、もうあて宮には、お会いできないのでしょうね。」
と申し上げる。
「まあ、縁起でもないことを。どうしてそのようなことがありましょう。それなら、今すぐ来るようにあの子に伝えましょうか? 今は落ち着いているように見えるけれども、心配だわ。」
と涙をお流しになり、あて宮のところに、
「侍従がたいそう心細くしているので、こちらに顔を出しなさい。いよいよ入内だというに時に、難しいのは承知だけれど、どうしても会いたがっているから。」
などとおっしゃる。
 あて宮は面倒なことだとは思うけれども、大宮からのお召しであるので、お渡りになる。

 侍従は大宮と左大将のお住まいである北の御殿で横になっている。

 侍従の前に現れたあて宮は、今が盛りの美しさである。
背丈は五尺に少し足りないほど。容姿はたいそうかわいらしく、御髪もみごとなまでに美しい。清らかな黒紫の絹がつやつやと輝いているような髪は、すべて毛先まで真っ直ぐに揃っている。その美しさは非の打ち所のないほどであるが、今日はまたさらに格別である。
兵衛の君孫王の君だけを連れてお越しになる。

 侍従はその姿をご覧になり、すぐには声も出せずにいたが、かろうじて、
「いよいよ今日入内なさるのですね。見送りすることさえ出来なくなってしまいました。もう生きているうちに再会することは、きっとないでしょうね。」
と涙を流しながら申し上げる。
「好きで入内するわけじゃないわよ。もう、どうしてそんな嫌なことばかりいうのよ。」
「だって、このまま死んでしまいそうだもの。ああ、心細く悲しいことだなあ。」
「またそんな思い詰めたようなこといわないでよ。」
あて宮はそう言ってお立ちになろうとすると、その懐に侍従は小さく丸めた文を投げ渡す。
このような歌がしたためてあった。

  倒れ転びながらも流す赤い血の涙の川は
  私の燃えたぎる思いの炎で、沸き立つほどです。

あて宮はそれを落とすまいとしっかりと手に取って立ち去ってゆく。
その後ろ姿を眺めながら侍従の意識は薄れていく。

 大宮と左大将は、多くの子の中でも特に可愛い侍従が、危篤になったことに動転はするものの、その一方で、様々な障害を乗り越えて思い立った入内の日取りが、延期になってしまうのでないか、ということばかりが気がかりで、この機会を逃したならば、このまま流れてしまうのではないかとも心配されるにつけ、思い惑うばかりである。
 「あまり騒ぐでない。しばらく黙っておれ。」と制止なさるが、ご子息たちは男も女も侍従のもとに集まって大騒ぎをしている。
外では何事もないかのように牛車の準備が整えられているが、家の中では誰も彼も分別もなく、正気を保っていられる人はいない。


念願のあて宮との面会を仲澄は果たす。
今日のあて宮は晴れの日であることも加えていっそう美しい。その姿を見た兄の心中は察するに難くない。

兄の恋心を疎ましく思いながらも、やはり兄妹である。無邪気だった幼少の頃も思い出したであろうか。

兄から送られた鬼気迫る歌をしっかりと受けとめるあて宮。
一瞬ではあるが、仲澄の思いが叶った瞬間でもある。

着々と入内の準備を進める外の人々、
仲澄の危篤に慌てふためく兄弟や女房たち
心配しつつもあて宮の入内で頭がいっぱいの両親
それぞれがバラバラなまま、状況だけが進んでゆく。

しかしそんな周囲の喧噪も兄妹には遠いものに感じたであろう。
恋とか、兄妹であるとか、東宮とか、入内とか、そんなものを超越したところに、今この瞬間二人はいるように思えてならない。

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