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宇津保物語を読む 俊蔭3

俊蔭漂流 琴を習う。

 唐土もろこしに至らむとするほどに、あたの風吹きて、三つある船二つはそこなはれぬ。多くの人沈みぬる中に、俊蔭が船は、波斯国はしこくに放たれぬ。
 その国の渚にうち寄せられて、たよりなく悲しきに、涙を流して、「七歳より俊蔭がつかうまつる本尊、現はれたまへ」と、観音のほんぜいを念じたてまつるに、鳥けだものだに見えぬ渚に、鞍置きたるあをき馬出で来て、踊り歩きていななく。
 俊蔭七たび伏し拝むに、馬走り寄ると思ふほどに、ふと鞍に乗せて、飛びに飛びて、清く涼しき林のせんだんのかげに、虎の皮を敷きて、三人の人並びみて、きんを弾き遊ぶところにおろし置きて、馬は消え失せぬ。
 俊蔭、林のもとに立てり。三人の人、問ひていはく、「かれは、なんぞの人ぞ」。俊蔭答ふ、「日本国の王の使つかひ、清原の俊蔭なり。ありしやうは、かうかう」といふときに、三人、「あはれ、たびびとにこそあなれ。しばし宿やどさむかし」といひて、並べる木のかげに、同じき皮を敷きてゑつ。俊蔭、もとの国なりしときも、心に入れしものはきんなりしを、この三人の人、ただ琴をのみ弾く。されば添ひゐて習ふに、一つの手残さず習ひとりつ。

(新編日本古典文学全集より引用)

 唐土に到着しようとするときに、暴風が吹いて三艘ある船のうち二艘は難破してしまった。多くの人が沈んでしまったなかで、俊蔭の船は波斯国に放着した。
 その国の渚に打ち上げられて、心細く悲しくて、涙を流して
「七歳の時から俊蔭がお仕え申し上げるご本尊さま、お姿をお見せ下さい」と、観音の本誓を念じ申し上げると、鳥や獣でさえ見えない渚に、鞍を置いた白馬が出現し、踊り歩いていなないた。
 俊蔭は七たび伏し拝むと、馬は走り寄ると思うや否や、ふと鞍に乗せて、飛びに飛んで、すがすがしく涼しい林の栴檀の木の下で、虎の皮を敷いて三人の人が並んで琴を弾いているところに、俊蔭を下ろして、馬は消え去った。
 俊蔭は林の木陰に立っていた。三人の人が尋ねていうには
「あなたは、誰か」
俊蔭が答える
「日本国の王の使者、清原の俊蔭である。ことのいきさつはこれこれで……」
というと、三人は
「ああ、旅人であったか。しばらく宿をお貸ししよう」
といって、並んでいる木陰に、同じ虎の皮を敷いて、俊蔭を座らせた。俊蔭は日本にいたときも心を込めて習っていたのは琴であったが、この三人の人はただ琴だけを弾く。そこでそばについて習ううちに、一曲も残さず習得してしまった。

あたの風=航海に「あだ」をなす風。暴風。
あをき馬=白馬。
琴=中国の弦楽器。唐代のものは長さ約1.2メートル。ことを用いず、13個の(勘所)を目印に左指で弦を押さえ、右手で弾く。弦の数が7本なので七弦琴ともいう。奈良時代に日本に渡来したが、平安末期に絶え、江戸初期に明の東皐とうこう禅師により再興し、文人に流行。(広辞苑より)


 波斯国という漢字はペルシャをさすが、この場合、ペルシャはありえない。唐とは違う異界の地をイメージしたか。

 観音の慈悲で俊蔭は三仙人のもとに運ばれる。これも宿命であろう。俊蔭はここで琴の秘法を習う。

 琴は「君子の楽器」とされていた。源氏物語においては光源氏が得意とした。紫式部の時代には既に廃れてしまった楽器であり、なればこそ、特別な楽器となる。琴によって演奏される曲を、当時の人はもはや聞くことができないのだから、いくらでもそこに神秘性を盛り込むことはできるのだ。


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