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宇津保物語を読む2 藤原の君#13

良岑行政、唐より帰国して兵衛佐となる

 また、死にける良岑の四位のひとつ子、花園といふ、殿上わらはに使ひたまひける、年十歳ばかりなる、かたち清らに心かしこし。帝、生ひ出でぬべき者と御覧ずるに、父が供につくくだりて、唐土もろこしぶねのかへりみに出で立つ。唐土もろこし人、「わが国に生ひ出づる者にも劣らぬ者かな」とて、奪ひ取りてぬ。父母恋ひ悲しびて死ぬるも知らで、唐土もろこしに渡りて、ふみを一にて読むに、それならぬものも、かしこき人のするわざせぬなし。琴よりはじめて、よろづのものの、知らぬなく上手なり。
 十にて渡りて、八年といふに、けうやくの船につきて、この国に帰りぬ。帝聞こし召して、「あやしくて隠れにし童、まうで来たなり」とのたまひて、召して御覧ずるに、童の往にしときよりも、かたちも清らに見たまふ。さらにかしこうせぬわざなし。帝、「上にさぶらひし者なり。ものの師仕うまつらせて聞かむ」とのたまひて、式部丞かけたる蔵人になされぬ。しばしありて、かうぶり得て兵衛佐になりぬ。東宮にも上許されて、琵琶仕うまつる。若宮にも、箏の御琴仕うまつる。

 また、亡くなった良岑の四位のひとりっ子、花園という殿上童としてお使いになっていた10歳ほどの少年がいた。容貌は美しく心だても聡明であった。
帝は、成長すればきっと世に出るに違いないとご覧になっていたが、父が筑紫で唐の船の監督のために出立するときにその子を同行させたのである。
ところが、それを唐土人が
「吾が国で成長した者にも劣らない子だなあ。」
といって、奪い去って、唐へと連れて行ってしまったのである。
両親は、恋い悲しみのあまり死んでしまったが、子はそのことも知らず、唐土に渡って、漢籍を読むことを第一にし、また、それ以外のものも、賢い人がすることは、全て習得する。
琴よりはじめて、多くの楽器をならい、弾けぬものは何もなく巧みに演奏をする。

10歳の時に渡唐して、8年たったとき、交易の船に乗ってこの国に帰ってきた。
帝はそれをお聞きになり、
「あやしくも行方不明となっていた子が、戻ってきた。」
とおっしゃり、お呼びになってご覧になると、子どもの頃にいなくなった時よりも、容貌も美しく思われる。その上聡明であり、できないものは何もない。
帝「以前も殿上に仕えていた者である。楽師としてその演奏を聴こう。」
とおっしゃって、式部丞を兼ねた蔵人に任命なさった。また、しばらくして従五位に叙せられ兵衛佐となった。東宮の御殿にも昇ることが許され、琵琶をお教えする。また、若宮にも箏の琴をお教えした。


俊蔭の巻に登場した、音楽の名人行政の登場である。
仲忠に琴以外の楽器を教えたが、その生い立ちは、俊蔭ほどではないが、数奇なものであった。

「俊蔭」を読んだあとにこの段を読むと二番煎じのように感じてしまうが、そもそも「藤原の君」の巻は「俊蔭」に先行するのではないかと私は考えている。むしろこの行政のエピソードがもととなって「俊蔭」の巻が構想されたのではないかと思うのだ。

行政、宮あこ君に託してあて宮に歌を贈る

 かくて、いとかしこき時の人にて、夜昼、内裏うち、東宮にさぶらひて、定めたるもなし。思ひかくまじき人にもの聞こえなどして、このあて宮の名高くて聞こえたまふを、いかでと思ひて、いひたはぶるる人にものもいはず、よき人の娘賜へど得で、大将殿の兵衛佐の君、同じつかさにものしたまふを、うるはしく語らひきこえてあるを、おとど見たまひて、(正頼)「ここにかく若きをのこども、あまたはべるところなり。定めたる里なんども設けたまはざなるを、あきずみがはべるところを里と思ほせかし。宮あこまろを弟子にしたまへ。いかでこれをだに、もの聞き知りたる者にほし立てむ」とのたまひければ、行政喜びて、兵衛佐の君の御方にざう作りて、ただそこにのみなむありける。
 三月ばかり、御まへの花の盛りに、花の宴したまひけるに、行政うた作り、遊びもしければ、君だちの御かさね賜ひけるにも、思ふ心ありけれども、その日にはあらで、宮あこ君にいふほどに、(行政)「君に、いささかなること聞こえむ。人にのたまふな。行政を思ほさば」。宮あこ君、「なほのたまへ。人にもいはじ」とのたまふ。行政、
  「四方よもの海に玉藻かづきし海人あましもぞ
   荒れたる波の中も分けける
おほけなき心、憂きものになむ」と書きて、宮あこ君に、(行政)「これ中のおとどの姫君に奉りたまひて、御返りごと取りて持ておはしませ。さらずは御笛も習はしたてまつらじ」宮あこ君、あて宮に奉らせたまふ。(あて宮)「誰がぞ」とのたまふ。(宮あこ)「まろに笛習はしたまふ人のなり」といふ。(あて宮)「めざましのことや」とて見たまはず。(宮あこ)「なほ見たまひて、御返り賜へ」とのたまひて、(宮あこ)「今いはむものぞ」とて泣きののしりたまふ。あて宮、「かかる人の返りごとはせぬものぞ。ただ『見せつれば、めざましとなむいふ』とをのたまへ」。あこ君、「さらばまろに笛習はさじをや」など泣きたまふ。今宮、「幼き子に文とらせて、ふちも知らせず責めさするは、かしこきわざかな。聞きにくしとて見よ、とすめりかし」とのたまふ。
〔絵指示〕省略

(小学館新編日本古典文学全集)

 こうして、たいそう優れた時代の寵児として、夜昼となく、宮中や東宮にお仕えしていたが、これと決まった妻もまだいない。許されぬ恋の相手などに手紙を送るなどしていたが、あて宮が美人であるとの評判をお聞きになってからは、何とかして妻としたいと思い、戯れに言い寄ってくるものにも返事をせず、良家の娘をお与えになろうとしてもお受けしない。左大将殿の兵衛佐の君(顕澄)が同じ役職でいらっしゃったが、この行政と親しく交際していたのを、左大将殿がご覧になり、
「我が屋敷は、このように若い男たちが、たくさん住んでいる所です。決まった里も設けていらっしゃらないのでしたら、顕澄の所を里とお思いなさい。そして、宮あこまろをあなたの弟子としてください。なんとかして、この子だけでも芸の道をわきまえたものとして成長させたいのです。」
とおっしゃると、行政は喜んで、言われたとおり、兵衛佐の君の所に曹司を作って、そこにばかりいらっしゃる。
 三月の頃、御前の花盛りに花宴をなさったが、そのとき行政は歌を作り、楽器の演奏もしたので、女君たちの衣装をいただいたが、あて宮に対して思うところもあったけれど、その日はそれで納めることとした。
日を改めて、ある時、宮あこ君に言う。
「あなたにちょっとしたことを申し上げよう。誰にもおっしゃってはいけませんよ。私のことを思うならば。」
宮あこ君は
「どうぞおっしゃってください。誰にも言いません。」
とおっしゃる。

行政、「四方の広い海で玉藻を採った漁師であれば、
   荒れた波の中でも、分け入ってゆくのです。

畏れ多い心ですが、つらいものなのです」
と書いて、宮あこ君に
「これを中の御殿の姫君に差し上げて、ご返事を持ってきてください。そうでなければ、笛をお教えしませんよ。」
と渡す。
宮あこ君はあて宮に差し上げなさる。
「誰からなの」
とあて宮がおっしゃる。
「私に笛を教えてくださる人のです。」
「あきれたわ」
といってご覧にならない。
「やはりご覧になって、返事をください。」
とおっしゃり、
「今すぐお返事を下さい。」
といって大泣きなさる。
「こんな人の返事はしないって決めてるの。ただ、『見せたけど、あきれたと言っていた』と伝えなさい。」
「そんなあ~、そうしたら私に笛を教えてくださらないよ。」
などとお泣きになる。
それをそばで見ていた今宮、
「幼い子に手紙を持たせて、理非の判断もさせずに返事を強要するのは、利口なやり方ね(ほめてないけど)。聞き苦しいからと見るように仕向けているのだわ。」
と人ごとのように面白がる。


左大将は娘たちを通して、多くの才能ある男たちを自分の屋敷に住まわせる。婿としてだけでなく、ときには親友というかたちで、迎え取る。「俊蔭」の巻で「はらからの契り」を仲澄と仲忠が結んだように行政も顕澄の義兄弟となる。
人が多く集まることが、影響力の強さとなり、またそれに憧れて、多くの男たちが集まる。これも権力掌握の一つのかたちなのだろう。

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