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宇津保物語を読む 俊蔭Season5 #4

正頼、娘を禄として、仲忠に琴を弾かせる

 かかるほどに、仲忠の侍従、被けもの取りて今ぞ出で来たる。左大将、引きとどめたまひて、度々強ひたまふ。侍従、(仲忠)「かしこければ」とて、飲みわづらひて、(仲忠)「いとおそろしき目をも見はべるかな」といへば、左大将、(正頼)「わがぬしをはしたてまつるも、心ありや。酔ひて、もはらしたまはねば、本性現はしたまへとぞや」と、たはぶれたまひて、(正頼)「まことは、かのものの、いささか聞かせたまへ。今日の御あるじに、この御琴のせねば、春の山に鶯の鳴かぬあした、秋の池に月の浮かばぬ夕べになむあるべき」とせちに責めたまへば、父おとど、内に入りたまひて、りうかくを取りて出でたまへれば、左大将取りたまひて、(正頼)「これにただ御手一つ遊ばせ。去年こぞの五節の夜、ほのかにうけたまはりて、いよいよなかなかなる心地なむする」とのたまへれば、侍従、(仲忠)「年ごろむげに忘れはてはべりしに、せちなりし宣旨のおそろしさに、からうじて思ひたまへ出でて、ひと仕うまつりしを、そもそも、はかばかしうやはべりけむとだに覚えはべらず、今はましてかけても覚えはべらず。そのうちに、今日の御あるじに、仲忠が手仕うまつらむは、よもぎの野辺にかはづの声する心地なむ仕うまつるべき」と聞こゆるに、あるじのおとど、(兼雅)「好き者や。なほ仕うまつりて、重き禄やは賜はらぬ」。左大将、(正頼)「正頼がらうたしと思ふの童はべり。今宵の御禄には、それを奉らむ」とのたまへば、からうじて、まんざいらく声ほのかにかき鳴らして弾くときに、仲頼、行政、今日を心しける琴を調べ合はせて、になく遊ぶときに、なほ、仲頼感にたへでり走り、万歳楽を舞ひて御まへに出で来たり。行政琵琶、大将やまごと、みな調べ合はせて、あるかぎりの上達部、声を出だして遊び興じたまふ。

 こうしているうちに、仲忠の侍従は、ご褒美をいただいて、今まさに出ていこうとなさる。左大将は、それを引き留めなさって、酒杯を強いてお与えになる。
侍従は
「畏れ多いことで」
といいつも、呑むにも難儀なさり、
「たいそう辛い目に遭うことです。」
というと、左大将は
「あなたを酔わせ申すには、魂胆がありますのでね。
酔ってもいっこうに素知らぬ風でいらっしゃる。さあ本性をお現しなさい。」
と戯れなさり、
「実はね、あの琴の音を少しなりともお聞かせ下さい。今日の御饗にこの琴の音がなければ、まるで、春の山にうぐいすの鳴かぬ朝、秋の池に月の浮かばぬ夕べのようでございましょう。」
としきりに、催促なさるので、父大将は、中にお入りになり、りうかく風を取ってこられる。左大将はそれを受けとって、
「これでただ一曲だけでも弾いて下さい。去年の五節の夜、少しばかりお聞きしてから、ますます、もっと聞きたいという気持ちになりました。」
とおっしゃるので、侍従は、
「ここ数年琴のことなどすっかり忘れておりましたのに、帝のたってのご要望の畏れ多いさに、なんとか思い出しながら一曲弾かせていただきましたが、そもそも上手に弾けたかどうかも覚えておりません。まして、今は少しも覚えておりません。そのうち、今日のこの御饗で仲忠が演奏するようなのは、蓬の野辺に蛙の声がするような不興な感じがするにちがいありません。」
と申し上げると、主人の左大将は
「好き者よなあ。やはりお弾きして、たくさんのご褒美をいただきなさい。」
左大将
「では私正頼がかわいいと思っている女の子がございます。今宵のご褒美としてその子を差し上げましょう。」
とおっしゃるので、やっとのことで、万歳楽をほんの少しかき鳴らして弾く。すると、仲頼や行政が今日のために準備していた琴をそれに合わせ、このうえなく演奏なさる。さらに仲頼は感極まって庭へと走り下り、万歳楽を舞って御前へと出てきた。行政は琵琶を、左大将は和琴を、みなでそれに合わせ、そこにいるすべての上達部たちが声をあげて歌い興じなさる。

もはら=打消を伴い「いっこうに」「まったく」などの意
りうかく=りうかく風。仲忠の琴として、うつほで伝授された。

なかなかなる心地=どっちつかずの中途半端な気分。


 りうかく風がこの屋敷に保管されていた。琴は、山に入る時にすべて持っていったとある。(Season3#3)そして、山を出る時には置いてきたのだが(Season4#5) 置きっぱなしというわけにはいかないので、あとで取ってきたのだろう。
 兼雅はどこまで琴の事情を知っているのだろう。俊蔭の娘であることは、既に知っているので、遺品の琴のことを知っていても不思議ではない。
 が、そうだとしても「はし風」と「なん風」の存在は秘められていたはずで、兼雅も含め、家人の目につかないところに隠してあるはずである。
そのためには、うつほから持ってくる時にも、知られないようにしなければならない。仲忠が一人でこっそり取ってきたのだろうか。


 仲忠、例のごくの手は弾かで、思ひのものを弾くときに、(正頼)「かくては御禄もいかがはせむ。なほ少しこまかに遊ばせ」とせちにのたまへば、調べ変へて弾く。おもしろきこと限りなし。いまだ仲忠かやうに弾くときなし。まへにて弾きしよりもいみじう、この声もくうつきて習ひ来たれば、なつかしくやはらかなるものの、いとめづらかにおもしろし。よろづの人、けうでたまふ。ただ少しかき出でたる、おとどの内響き満ちていみじきを、ゆいこくのごくの三つを、声をかぎりかきたてて弾きたまふに、いとどありとある人でまどひて、左大将のおとど、ましてあはれがりでたまひて、御あこめかさねを脱ぎて、(正頼)「御うなじの寒げなるも、かかればぞかし。
  みな人をうづむ紅葉のかからぬも風吹く松と思ふなるべし」
仲忠、
  みな人に垣ほの紅葉かかれども散らせる枝はねたしとも見ず
仲頼、感にたえず下り走り、万歳楽ををれ返り舞ふに、あるじのおとど、あこめ脱ぎたまふ。左、右の大将、御琴ども合はせて、仲頼、行政笛吹き、あるかぎりの人、はう合はせて遊びたまふ。おもしろきこと限りなし。大将殿、童におはしけるとき、嵯峨の院の御賀に、らくそんになく舞ひたまふ名取りたまひける、今宵、かく遊び人を尽くして、めづらしきものの添はりてめでたきに、なかずみの侍従、落蹲舞ひて、御はしのもとに舞ひ出でて、をれ返り舞ふ。仲忠、でしれて、大将のかづけたまへるあこめをうちかづけて、もろともに舞ひ遊ぶ。仲澄、舞ひ出づとて、御さいまつともしてさぶらふ左近将監ぞうちかまさに、うち被けて入りぬ。

(本文は小学館新編日本古典文学全集)

 仲忠は、例の秘曲は演奏しないで、心に思い浮かんだ旋律を弾いていたが、
「これでご褒美を差し上げるのはどんなもんでしょうなあ。やはり、もう少し心を込めて演奏をして下さいな。」
としきりにおっしゃるので、それではと仲忠は調子を変えて弾く。興深いことこのうえない。帝の御前で演奏した時よりもたいそうすばらしく、この琴の音も年功を積んで習ってきたので、親しみ深く、柔らかなものではあるが、たいそうもの珍しく聞こえ、興深い。全ての人々が興じお褒めなさる。すこしかき鳴らしただけで、御殿の中に音が満ちあふれてすばらしいのに、ゆいこくの秘曲三曲を音色の限り、かき立てて弾きなさるので、その場にいる人々はたいそう熱狂し、左大将殿はまして感動し賞賛なさって、衵一襲を脱いで、「あなたのうなじが寒そうなのは、被け物がないからですね。

 ここにいる全ての人を埋めてしまう紅葉があなたには掛からないのは、
 あなたの琴の音を風吹く松の音だと思い、遠慮しているからでしょうか。
(十分なご褒美を差し上げずに申し訳ない。)

仲忠

 全ての人に、垣根の紅葉は掛かるけれども、
 琴の音でその紅葉の葉を散らした私は、
 その枝を、妬ましいとも思いません。
(べつに私はご褒美は期待しておりませんでしたし)

 仲頼はふたたび、感極まって庭へと走り下り、万歳楽を繰り返し舞うと、右大将は、それに衵をお脱ぎになって与える。左右の大将は琴を合奏して、仲頼と行政は笛を吹き、そこにいる全ての人々は拍子を打ってお遊びになる。面白いことこの上ない。左大将がまだ子供であった時、嵯峨院の御賀で落蹲を上手に舞い評判となったが、今宵、このように演奏者が技を尽くして、聞いたこともない琴の音がそれに合わさったすばらしい演奏に、今度は息子の仲澄侍従が落蹲を舞い、きざはしのもとに舞い出でて、繰り返し舞う。仲忠は、感動し、左大将からいただいた衵を今度は仲澄に与え、一緒に舞い遊ぶ。仲澄は舞いながら退出する時に、松明をともして控えていた左近将監近正にその衵をお与えになってお入りになる。

くうつく=年功を積む。老練になる
二人の歌について
  うづむ紅葉=禄や被け物のこと。
仲澄=左大将の子息。


 ついに仲忠の演奏が披露される。人々はその演奏に熱狂し、笛をあわせ、踊り、拍子を取り歌を歌う。

 左大将がいう「らうたしと思ふ女の童」は、「藤原の君」に登場するあて宮と思われる。あて宮は、宇津保物語のもう一人の主人公。多くのものから求婚される。仲忠もかねてから興味をもっていた。(Season5#2)
そのあて宮を褒美にやろうと左大将は言う。
まあ、本心ではあるまい。酒の席だからとごまかすつもりだろうし、本気にする方が無粋である。
が、しかしここで、仲忠とあて宮の二つの物語が交錯する。

 どうなるかしらと読者は期待する。
そのためにも、あて宮の物語を読者がすでにある程度知っている必要があるのは前にも言ったとおり。

ネタバレ上等

 私は話題の映画は封切りすぐに見に行く。でないと、ネットなどを見ている時に何かの拍子でネタバレされてしまうからだ。ネタバレにならないように配慮してくれていても、やっぱり聞いてしまうと幻滅する。小説も同じだ。映画や小説にはネタバレは厳禁である。

 しかし、古典を読む時、例えば源氏物語など、初めて原文を読む前でも、すでにあらすじが頭に入っていることのが多い。学生のころは「あらすじ知らないで源氏を読めたらもっと楽しかっただろうに」と残念に思ったが、しかし、だからといって感動がなかったわけではない。

 更級日記の作者、菅原孝標女は、田舎で母や姉から源氏物語の一節を聞き、想像をふくらませ、ついに京で源氏物語全巻を読む。その感動は「后の位もなににかはせむ」まさにトップオブザワールド有頂天である。

 物語の断片が頭にあっても、感動は失われない。いやむしろ、物語の断片が頭にあったからこそ、感動は深まるのではないか。

 いくつかの物語の断片を、前後、関係なく味わう。タイムラインによる因果律から自由になる。

 全編を通して読むことなど、たいして意味はないのかも知れない。
好きなところを何度も繰り返したり、前に戻ったり、先に進んだり、そうなってゆくうちにだんだんと味わいが増してくるのかも知れない。

 私たちは過去を思い出す時、時間軸に沿って思い出すことなどない。
数年隔たった事件が脈絡なく眼前に現れ、そして現在と重なる。

物語もまた、記憶と同じなのかも知れない。

古典とされるものは特に。

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