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宇津保物語を読む 俊蔭9

仏、現じて因果のことわりを示し予言する

山、野ゆすり、大空ひびきて、雲の色、風の声はりて、春の花、秋の紅葉、時かず咲きまじるままに、遊び人ら、いとど遊びまさるほどに、仏、渡りたまひて、すなはちじやくに乗りて、花の上に遊びたまふときに、遊び人ら、ざんまいを琴に合はせて、七日七夜念じたてまつるときに、仏あらはれてのたまはく、

山谷のは揺れ動き、大空は鳴り響いて、雲の色や風の音は変わり、
春の花、秋の紅葉季節にかまわず咲き交じる中で敏蔭や仙人達、音楽を奏でる者たちは、ますます演奏が冴え勝るときに、
仏はお渡りになって、孔雀に乗って花の上を逍遙なさっているときに、
演奏家達は阿弥陀仏の名を一心不乱に琴に併せて7日7晩念じなさっているときに、
仏は現れて、おっしゃる。

三昧=一心不乱に~する。

文が錯綜している。正しく整理すると、
「遊び人達が、季節にかまわず咲く花の中で一心不乱に阿弥陀仏の名を異に併せて念じているときに、仏は孔雀に乗って現れた。そのとき、野山は振動し、雲の色、風の音が変わった。」となる。
なんか思いつくままに書いたといった感じ。しかし、これも耳で味わう「語り」としてならば、独特のリズムになるのかもしれない。書きことばと話しことばの差だと考えれば、納得もできる(かな?)

「汝らは、昔つとめ深く、犯しは浅かりしによりて、そつてんの人と生まれにき。いま浅かりししんむくいに、こくしゆじやうになりにたり。そのごふやうやうきにたり。また、この日の本の衆生は、しやうじやうに人の身を受くべきものにあらず。そのゆゑはいかにといへば、まへの世にいんよくつみはかりなし。しかあれば、りんしつる一人が腹にはつしやう宿り、二千人が腹におのおの五八生宿るべし。その宿るべき母一人、人の身を受くべき人なし。

「おまえ達は、昔仏に仕えること深く、罪を犯すこと浅いがために、兜率天の人として生まれたのだ。今少しの瞋恚の罪の報いによって地上界の衆生となってしまったのだ。しかしその罪業はようやく尽きようとしている。
また、この日本の衆生は流転する輪廻の中で決して人間の身に生まれるべきものではなかった。その理由はなにかというと、前世において淫欲の罪が計り知れないほど強かったからだ。だから、輪廻転生する中で一人の腹に8回宿り、2000人のはらにそれぞれ5・8宿るはずであった。その宿るはずの母には一人として人の身を持つ者はいない。」

瞋恚=憎しみと怒りを起こす心。仏教における三毒・十悪のひとつ。
五八生=5回8回と「全集」の訳にはあるが、5×8と解釈することはできないか?
宿るべき母一人、人の身を受くべき人なし
 =「宿るべき母一人を除いては、すべて人の身を受くべき者はいない」と全集の訳にあるが、「一人として人間の母はいない」と訳すことはできないか?
「人間にはなれない」というのだから、一人だけ人間の母がいる必要もないと思うのだが。

しかあれど、むかし大そむはむなといひし仙人ありき。その仙人のせしことは、むかし、けんどんじやけんなる国王ありて、国ほろびて、もろもろの衆生、国土の人、こくにつかれしときありし。そのときに、この仙人、まんごうしやの衆生にこくして、尊勝陀羅尼をとうざんまいおこなひつとめて七年ありき。そのときに、日本の衆生、三年つつしみて、かの仙人に菜摘み水汲みせしどくの故に、輪廻生死の罪をほろぼして、人の身を得たるなり。尊勝陀羅尼を念じたてまつる人を供養したる故なり。

そうではあるが、昔、「大そむはむな」という仙人がいた。その仙人がしたことは、昔、物惜しみをし、欲深く愚かな国王がいて、国が滅び、多くの衆生や国民が飢えに苦しんだときがあった。その時にこの仙人が多くの衆生に穀物をほどこして、尊勝陀羅尼を一心不乱に読経して行い勤めること7年にもなった。その時にこの日本の衆生が3年間謹んでこの仙人に菜を摘み水を汲んだりして世話をして、功徳をつんだために、輪廻生死の罪を滅して、人の身を得たのである。尊勝陀羅尼を祈念し申し上げる人を供養したためである。

慳貪=物惜しみすること。ケチで欲深いこと。
邪見=よこしまな見方、考え方。因果の道理を無視する誤った考え方。
万恒河沙=ガンジス河の砂のように無限に数の多いこと。
尊勝陀羅尼=尊勝仏頂の悟りや功徳を説いた陀羅尼。読誦すると罪障消滅や除災延寿の功徳があるとされる。
陀羅尼=梵文を翻訳しないままで唱えるもので、不思議な力をもつと信じられる比較的長文の呪文。
無等三昧=物事に一心不乱に没入すること。
  無等=仏教では他に等しい者がいない仏をいう。(全集注)

淫欲の罪で次に生まれ変わるときはぜったいに人間になれなかったはずだったのを、仙人への供養の御利益で人間に生まれ変わることができたということか。褒められているんだか、貶されているんだか。尊者に3年仕えると畜生に落ちることが赦される。供養の御利益すげー、って感じ。

今もまた、人の身を受けむことはかたしといへども、今この山に入りて仏菩薩をおどろかし、だいじやけんのともがらに、にんにくの心を起こさしむる故に、この山の七人、残れるごふほろぼして、天上に帰るべし。日本の衆生、このいんえんに、生々世々に仏に会ひたてまつり、のりを聞くべし。またこの山のぞう七人にあたる人を、三代のうまごに得べし。その孫、人の腹に宿るまじきものなれど、このもとの国に契り結べる因縁あるによりて、その果報豊かなるべし」とのたまふときに、遊び人ら、らいはいしたてまつる。

今もまた、人の身を受けることは難しかったが、今この山に入って、仏菩薩に注意を向けさせ、怠惰で愚かな阿修羅たちに慈悲の心を起こさせたので、この山の七仙人は残りの業を消滅させて天上に帰るのがよい。日本の衆生はこの因縁によって何世にもわたって仏にお会いすることができ、法を聞くことができるであろう。またこの山の族七人にあたる人を、三代の孫として得るであろう。その孫は人の腹に宿るはずのないものであるが、この日本の国に契りを結ぶ因縁があることによって、その果報は豊かなものを得るだろう。」とおっしゃったときに、演奏をしていたものたちは礼拝申し上げた。

懈怠=怠けて励まないこと。

「××邪見」という言葉がここでも繰り返された。今の我々は同じような表現はなるべく繰り返さないように心がけるが、どうも作者はそういう意識はないようである。むしろあえて使っているのか?
「この山の七人、残れる業を滅ぼして、天上に帰るべし」は唐突。作文指導なら赤ぺんがはいるレベル。阿修羅に忍辱の心を起こさせたのは俊蔭。昇天した七仙人と因縁を結ぶといいたいので挿入させたか。
「山の族七人」について、全集の訳では「この山の仙人の第7番目にあたる人の子孫」としてある。ずいぶんと回りくどい訳だが、長男と思われるこの山の主本人、もしくはその子孫ということか。

俊蔭、この琴を、仏より始めたてまつりて、菩薩に一つづつたてまつる。すなはち雲に乗り、風になびきて帰りたまふに、天地しんどうす。

(本文は小学館新編日本古典文学全集)

俊蔭は、この琴を仏をはじめ、文殊菩薩に一つずつ献上した。仏と菩薩はすぐに雲に乗り風に吹かれてお帰りなさると、天地は鳴動した。

源氏物語は名文で、宇津保物語の文が拙いのはなぜか。

確かに宇津保物語は文章が洗練されているとは思えない。しかしそれは作者の力量の差と一概に言いうるのだろうか。
 宇津保物語も源氏物語も作者が書いたオリジナルは残されていない。われわれが読むことができるのは、後世の人々が書き写したものだ。源氏物語は書き写されたテキストの量がとても多い。中には写し間違いもあり、後の学者達の手で修正され、整理されて現在に至る。悪いものがあるならば、良いものもある。オリジナルよりも読みやすい表現に書き直されたものもあったかもしれない。それが組み込まれることでオリジナルよりもブラッシュアップされたと考えることもできる。源氏物語は多くの人が読み、多くの人が書き写してきた。一方「宇津保物語」は人の手に触れる機会が少なかった。そのことにより、後世の人の手によるブラッシュアップを受けることが少なかった、もしくは書き写し間違いなどのマイナス面のみが残されて、それが訂正されずに放置されてしまったとも考えられる。
 誤解のないようにお願いしたい。源氏物語を貶めようというのではない。1000年の時間の中で多くの人の手によっていわば「熟成された」と考えるならば、それも含めての魅力ではないだろうか。そもそも素材に魅力がなければ誰も残そうとは思わないはずだ。
(人気漫画がアニメ化されてより美しく表現され人気が上がるようなものだ)

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