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宇津保物語を読む 俊蔭Season4 #2

北野の行幸 兼雅、琴の音を尋ねて山に入る

 その日、みかど、北野の行幸みゆきしたまふ日にて、その山のあたりなど御覧ずるに、その日さぶらひたまふ右大将のおとど、御馬を引きまはして、このことの調べを聞きつけたまひて、御このかみの右のおとどに聞こえたまふ、(兼雅)「この北山に、限りなく響きのぼるもののなむ聞こゆ。琴の声と聞こゆれど、多くのものの合はせたる声にて、内裏うちにさぶらふせた風の一つぞうなるべし。いざたまへ。近くて聞かむ」とのたまふ。右のおとど、「かく遥かなる山に、たれかものの音調べて遊びゐたらむ。てんのするにこそあらめ。なおはせそ」と聞こえたまへば、大将、(兼雅)「仙人などもかくこそすなれ。さらばかねまさ一人まからむかし」とのたまへば、(忠雅)「例の、すさびありきなめりかし。さらば、はや」とて、御むまぞひばかりして入りたまふに、武士もののふの残れるは、朝廷おほやけの使のらへにる、と思ひて、谷に落ち入り、ことやまに逃げ隠れて、一人もなくなりぬ。

 その日は帝が北野に行幸なさる日で、その山の周辺をご覧になっていると、その日お仕えしていた右大将殿が馬を乗り回してこの琴の調べを聞きつけなさって、兄の右大臣に申し上げなさる。
「この北山に限りなく響き渡るものの音が聞こえる。琴の音だと聞こえるけれど、多くのものの音を合わせたような音で、宮中にあるせた風の仲間じゃないかなあ。さあ行きましょう。近くで聞きたい」
とおっしゃる。右大臣は
「こんな都から遙か離れた山に誰が楽器を演奏しているのだろう。天狗がするのであろう。行ってはいけないよ。」
と申し上げなさると、大将は
「仙人などもこのようにすると聞いている。それでは兼雅一人で行きましょう」
とおっしゃると
「いつもの、きまぐれのようだな。では、早く」
といいて、御馬添えだけをつれて、お入りになると、武士の残党は朝廷の使いが捕らえに来たのだと思い、谷に落ち入り、他の山に逃げ隠れて、一人もいなくなってしまった。

帝=朱雀帝 俊蔭が仕えていた嵯峨帝の時の皇太子に当たる。


「帝」「右大将」「右大臣」など、役職名でいきなり登場し、それが誰にあたるのかわからない。右大将は「兼雅」という名であることはわかるが、それが小若君であるという説明はない。後に続く描写では兼雅が小若君であることを知っている前提で話が進んでいる。12年のギャップを読者につきつけて戸惑わせようとしているのか。もしくは、先の展開をよく知っている語り手(物語を姫君などに読み聞かせる女房)の解説を前提としているか。
私としては後者のような気がする。現代の我々が、頭注などを手がかりとして読んでいるのと同じである。「物語」が、読み聞かせるものであるならば、当然読み手と聞き手のコミュニケーションが発生するはずだからだ。

若小君=兼雅の再登場。白雪姫を救い出す王子のごとく颯爽とした登場である。
兼雅は「小若君」と呼ばれていた頃の幼さから大きく成長している。頼もしく若々しい行動力は、当時それだけのものがあれば俊蔭の娘の不幸はそもそもなかったのにと思わずにはいられない。

 二ところ続きて入りたまふに、いみじきものの、響きまさりつつ聞こゆ。空にもつかず、地にもつかず聞こゆるときに、あやしく聞きわづらひて、なほ山の末をさして入りたまふ。向かひたる峰、すぐれて高し。その峰の空に聞こゆ。いかめしう繁りて、森のごと繁りて見ゆる中に、この琴の声聞こゆ。かの峰をさして入りたまふに、空につける山に、けだものふすまを敷きたらむやうにあるときに、兄おとど、聞こえたまふ、(忠雅)「さればこそ聞こえつれ。むくつけくもあるかな。なほ帰りなむ。いざたまへ」とのたまへば、(兼雅)「わろきことをものたまはするかな。これこそおもしろけれ。深き山に獣住まずは、何をか山といはむ。だんとくせんに入るとも、兼雅ら獣にすべき身かは。この獣、害の心なすやと見たまへむ」とて、御馬をば尻打ちて入りたまへば、飛びに飛ぶ御馬にもとよりも乗りたまひつれば、雲につきてかけるやうにて入りたまふに、御むまぞひもさらに参らず、その麓にとまりぬ。兄のおとどは、御馬も劣りて、え追ひつきたまはで、とまりたまひぬベけれど、昔、父母の、賀茂詣でのとき騒ぎのたまひしを思し出でて、なき御影にも、さる獣の中に一人入りてとまりぬるとは見えたてまつらじ、と励みたまへど、かれは大将におはすれば、胡篠やなぐひ負ひたれば、獣もさりきこゆ。このおとどはさもおはせねば、いとおそろしうて、なほえのぼりたまはず。

(本文は小学館新編日本古典文学全集)

 お二人が続いて山にお入りになると、すばらしい琴の音はいっそう響き勝って聞こえる。空からでもなく、地からでもなく聞こえるので、不思議に聞き迷いながらさらに山の頂をめざしてお入りになる。向かう峰はとりわけ高い。その峰の先の空から聞こえる。たいそう木々が繁り、森のように繁っている中からこの琴の音が聞こえる。その峰を目指してお入りになると空を突くほどの山に獣たちは衾を敷いたように多くいるので、兄の大臣は申し上げなさる。
「だから申し上げたのだ。気味の悪いところだ。やはり帰ろう。さあ」
とおっしゃると
「よくないことをおっしゃいますね。これが面白いのではありませんか。深い山に獣が住んでなければ、どうして山といえましょうか。檀特山に分け入ったとしても私たちは獣に食べられる身ではありませんよ。この獣たちは害をなすようには見えません」
といって、馬の尻を打ってお入りになると、飛ぶように速く走る馬にもとよりお乗りになっているので、雲に乗って翔けるようにお入りになる。馬添いもけっして付いていくことはできず、その山の麓に止まる。兄の大臣は馬も劣っており追いついていくことはおできにならず、止まりなさるけれど、昔、両親が賀茂詣での時に大騒ぎして叱りなさったことを思い出して、亡き両親のためにもこのような獣の中に一人で弟が入り、自分は止まっているとは思われたくないと、頑張りなさるけれど、あの方は大将でいらっしゃるので胡篠やなぐひを背負っているので獣も立ち去ってゆくが、それにひきかえこの大臣はそうではいらっしゃらないので、とても恐ろしくて、やはりお登りになることはできない。

檀特山=パキスタンのガンダーラにある山。釈迦が修行したとされる。


高い峰のむこう、多くの獣たちが守るように立ち塞がる。決心を持たぬ者はけっして入ることはできない。異世界への入り口である。

異世界では物理的な距離などというものは意味をなさない。子どもが一日で往復でき、母共々歩いて入ることのできた山ではあるが、兼雅たち現実世界のものからすれば、幾重にも連なる峰の先である。

 桃源郷は、無欲な漁師は入ることができたが、欲深い探索者は決してたどり着けなかったという。
してみると、武士たちが入って来られたのが不思議だが、彼らも獣の一種と思えば理屈が合うか。

兄は置いてけぼりであるが、親子の対面には、兼雅一人で行くのがふさわしい。これも「物語」の要請である。

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