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宇津保物語を読む 俊蔭6


俊蔭、西の花園で弾琴

かくて、三十の琴をつくりて、俊蔭、この林より西にあたれるせんだんの林に移ろひて、この琴のを試みむとて出で立つほどに、旋風つじかぜ出で来て、三十の琴を送る。そこにてを試みるに、二十八は同じ声なり。なかばを二つに造れるは、山崩れ、地けて、なな山一つにゆすりあふ。

小学館新編日本古典文学全集

こうして、30面の琴を作って、俊蔭は、この林から西にある栴檀の林に移って、このことの音色を試してみようと出発しようとすると、つじ風が吹いて、30面のことを吹き運ぶ。そこで音色を試してみると、28は同じ音色であった。木の中心を二つに割って作った琴は、弾いてみると、山が崩れ、地が割れ裂けて、多くの山が一度に揺れ動く。

栴檀の林=「西にあたれる~」とあるので、三仙人と過ごした林とはまた別の所。
七山=七は多数を示す。

30面のことをどうやって運ぶのだろうと思ったら、風が運んでくれたという。これなら日本にだって持って帰れるね。
 2つの特別な琴がある。のこり28はおまけみたいなものか。特別な2つの琴は山や大地を揺り動かすという。なんともオーバーな表現である。本当ならば、音楽の鑑賞どころではない。命がけだ。
 7という数字がここでも出てきた。7はラッキーナンバーだ。

俊蔭、清く涼しき林にひとりながめて、ことのあるかぎりかきたてて遊ぶに、三年といふ年の春、この山より西にあたる花園に移りて、琴ども並べ置きて、大きなる花の木の陰に宿やどりて、わが国のこと、父母のこと思ひやりつつ、声まさりたる二つの琴を試みる。春の日のどかなるに、山を見ればかすみみどりに、林を見ればけぶりて、花園花盛りにおもしろく、照る日のむまどきばかりに、琴の音をかきたて、声ふりたてて遊ぶときに、大空に音声楽して、紫の雲に乗れる天人、七人つれてくだりたまふ。

(本文は小学館新編日本古典文学全集)

俊蔭は、清く涼しい林に、ひとり瞑想にふけりながら、琴の音をあらん限り引き鳴して演奏していると、三年目の春。この山から西に当たる花園に移って、大きな花の木の木陰で暮らしながら、母国のこと、父母のことを思いやりながら、音色のすぐれている2つの琴を奏でてみる。
のどかな春の日に、山を見れば霞が緑色にたなびき、林を見れば、木の芽が芽吹いて、花園は趣深く花盛りで、日の照っている正午のころ、琴の音色をかき立て、音を精一杯張り上げて演奏していると、大空に音楽が鳴り響いて、紫の雲に乗った天人が7人連れで下りてこられた。

紫の雲=天人や仏が乗る雲。

またここで3年の時が過ぎる。さらに西の花園に移動した。(俊蔭、帰る気はあるのか?)
 「西方浄土」という言葉があるように、西は仏の世界、神秘の世界である。俊蔭の異世界彷徨の旅はまだまだ続くのだ。
 例の2つの琴を演奏した。(今回は山は崩れなかったようだ。パワーの調整はできるようである。)すると、天人が舞い降りる。人数は7.これもラッキーナンバーだ。
琴の音色に引き寄せられてきたか、やはりこの琴は不思議な力がある。

俊蔭、伏し拝みてなほ遊ぶ。天人、花の上にりゐてのたまふ。「あはれ、なんぞの人か。春は花を見、秋は紅葉を見るとて、われらが通ふところなれば、てふとりだに通はぬに、たよりなきすまゐはする。もし、これより東に、阿修羅があづかりし木得たまひし人か」とのたまふ。俊蔭、「その木たまはれるしゆじやうなり。かく仏の通ひたまふところとも知らで、しめやかなるところとなむ思ひて、年ごろこもりはんベる」と答ふ。

(本文は小学館新編日本古典文学全集)

俊蔭は伏し拝みながらも引き続き演奏をする。天人は花の上に下りて、おっしゃる。
「ああ、どういう人であろうか。春は花を見、秋は紅葉を見るために、私たちが通うところなので、蝶や鳥でさえやってこないのに、よくないことに暮らしている。
もしかしたら、ここより東で阿修羅が預かっていた木を手に入れなさった人だろうか。」
とおっしゃる。
俊蔭は、「確かにその木をいただいたものです。このように御仏が通いなさっているところとも知らず、物静かな場所と思い、ここ数年籠もっておりました」と答える。

たよりなき=不都合。よくない。
しめやかなり=物静かでしっとりとした様子

天人のいはく、「さらば、われらが思ふところある人なれば、住みたまふなりけり。天のおきてありて、あめしたに琴きて族立つべき人になむありける。われは昔、いささかなるをかしありて、ここより西、仏の御国よりは東、中なるところにくだりて、ななとせありて、そこにわが子七人とまりにき。その人は、極楽浄土の楽に琴を弾きあはせて遊ぶ人なり。そこに渡りて、その人の手を弾き取りて、日本国へは帰りたまへ。この三十の琴の中に、声まさりたるをばわれ名づく。一つをばなんとつく。一つをばはしとつく。この二つの琴は、かの山の人の前にてばかり調しらべて、また人に聞かすな」とのたまふ。「この二つの琴のせむところには、しや世界なりとも、かならずとぶらはむ」とのたまふ。

(本文は小学館新編日本古典文学全集)

天人がいうには、「それならば、私たちが思うところのある人であるので、暮らしていらっしゃったのですね。天の掟によって、人間の世界で琴を弾き一族を興す運命の人であるのだ。私は昔、少しばかりの罪を犯し、ここより西、仏の国よりは東、間の所に下って、7年過ごして、そこに私の子が7人残している。その人は極楽浄土の音楽に琴を合わせて演奏する人です。そこに行って、その人の演奏の業を習い、日本国へ帰りなさい。この30面あることの中にある、音色の優れたものに私は名を付けましょう。1つをなん風。もう一つをはし風と名づけます。この2つの琴は、あの山の人の前だけで演奏をし、他の人は決して聞かせてはいけません。」
とおっしゃる。
「この2つの琴の音がするところには人間世界であったとしても必ず訪れましょう」とおっしゃる。

俊蔭の運命の予言。琴の一族の始祖となる。この物語の方向性が示された。
 7人の天子の子よりさらに楽曲とテクニックをマスターせよという。
ここでもラッキーナンバーの7がでてくる。
琴に名が付けられる。なん風は「南風」、はし風は「波斯風」か。

先の阿修羅の場面同様、人がたどり着くはずのない場所(禁断の聖地)を訪れることは運命の導き、まさしく「貴種流離譚」である。

補足

貴種流離譚

貴種流離譚とは洋の東西に共通してみられる神話のプロット。英雄は異世界をさまよい、数々の出会いを経験し、不思議な秘宝や力を手に入れてもとの世界に帰ってゆく。「千の顔をもつ英雄」(ジョーゼフ・キャンベル)で指摘されている。
オデッセイや海幸山幸、ヤマトタケル。指輪物語からスターウォーズにいたるまで、ファンタージーの基本的な形である。

栴檀とは

栴檀については、「全集」の注には

「栴檀は香木で、白を白檀、黒を紫檀、赤を栴檀という。」

小学館新編日本古典文学全集

とある。
また、明鏡国語辞典では

「①暖地に自生するセンダン科の落葉高木。初夏、薄紫色の小花を円錐えんすい状につけ、秋に黄色い楕円だえん形の実を結ぶ。材は建築・器具用材。オウチ。
②ビャクダンの別称。」

明鏡国語辞典

となっている。
白檀については、同じく明鏡国語辞典の記述に

「南インド・東南アジアで植栽されるビャクダン科の半寄生性常緑高木。淡黄色の心材は堅く、強い香りを放つ。仏像・仏具・扇子などの材に使うほか、細片から白檀油をとって香料にする。栴檀。サンダルウッド。」
とある。

明鏡国語辞典

また、ネット検索の結果、京都大学のサイトから以下の資料を見つけた。

「仏典の中の樹木 : その性質と意義(1)」 (満久 崇麿 )
 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/51293/1/KJ00000704278.pdf

p26以降にビャクダンの記事がある。以下に栴檀・白檀に関する記述を引用する。

p26
「色調によって自栴檀,黄栴檀,紫(蘇)栴檀ともよんでいるが,漢訳仏典では樹木も香木もともに栴檀と訳している。」

p27
「~漢語の栴檀,英語のsandal(wood)はいずれも死語のcandanaから転じたといわれ,インドでも通常sandalwoodと呼んでいる。日本でいうセンダン科,属のセンダンMeliaAzedarachL.var.japo一m'caMakinoには中国語の棟という字があてられ,全く別の樹種である。」

p28
「仏典に出てくる栴檀の種類にもあいまいな所があるが大体次の3種類になる。
  ウラガサーラチャンダナ(Uragasaracandana),蛇心憎香,海此岸栴檀
  ゴーッィルシャチャンダナ(Go昌ir!acandana),牛頭栴檀
  カーラーアヌサーリンチャンダナ(K豆1anusarincandana),隔時焼香
 ゴーッィルシャチャンダナはインド南部の山地からでる黄栴檀で,最も香気の強い高級品,赤銅色の栴檀や赤栴檀もこの部類にはいるとされている。カーラーアヌサーリンチャンダナは筆者にはK51anusarin(StyracBenzoinDryand,安愚香樹)とcandana(栴檀)に分けた方が妥当ではないかと思われるが一般には1種類として扱われている。
 これらの栴檀は当時のインド人たちが薫香や塗香として身につけ,暑気を払う心身清浄剤としていたこと辛,建築,家具,その他器物の用材として仏廟や僧房の一部に使用(法華経一序品,方便品,信解品など)されていたことは歴史的な事実であり,また如来たちや法華経を信奉する人々がロから青蓮華の香を出し,一切の毛孔から栴檀の香を出すという表現はあながち仮空のことではない。しかし一般には栴檀は如来たちの坐誕,成道(悟りをひらくこと)あるいは説教を慶祝して空中からふりそそぎ,如来を供養し,仏国土に薫るという神話的な取扱いの方が多い。
 栴檀を教義の解説に利用している例を1つあげると,弥勤菩薩がスダナ王子に
「黒栴檀香はもし一鉢を焼けば,その香普く小千世界(仏教で考える世界の1つの単位)に薫じ,三千世界の中に満つる珍宝の価値は皆およぶこと能はざるごとし。菩薩の菩提心の香もまたかくのごとく,功徳は普く法界に薫じおよぶものなし。白栴檀香はもし身に塗れば一切の熱悩を除き,心身清浄ならしめる。菩提心もよく一切の煩悩(貴欲,いかり,無知などその数108という)を除き智慧をえて清涼ならしむ」(華厳経-入法界品)
 変った例としては-青年が美しい尼僧スパーを誘惑しようとして
「新しい布団をしき,栴檀の香木で美しく作られ,その香りのする高価な臥床に寝て下さい」
と口説く一節がある
(チ-リ-ガ一夕Theri-Gath云:早島鏡正訳長老尼の詩,仏典Ⅰ)o
中阿含経一遊行経第2によれば,釈迦は臨終の折,弟子のア-ナンダに命じて
「私の遺体を火葬にする峰は転輪王(7つの神通力と4つの徳を備えで世を治める神話上の帝王,神話ではよく釈迦にたとえられる)と同じように栴檀香櫛(棺)におさめ,栴檀その他の香木を薪にせよ」
と遺言しているが,インドでは昔から薪の中に加えられる白檀の枝の量が死者の貧富の尺度となるといわれている。
 現在でも火葬は聖なるガンジス河などの河畔で衆人環視の中で行なわれるが,上記の尺度がいまなお残っているかどうか筆者ほしらない。

「仏典の中の樹木 : その性質と意義(1)」(満久 崇麿 )

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