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宇津保物語を読む3 忠こそ#8

忠こそ、出家の願いを鞍馬の山伏に語る

 五日といふ日のつとめて、くらより、若くより籠れる行ひ人の、髪ところどころ白けたるが、弟子三人、童子五人連れてありけるが、かて絶えて、大殿のかどに来て、せんを尊く読む。いと尊く聞こゆれば、忠こそ起き走り出でて見るに、いとになき行ひ人なりと見て、忠君伏し拝みたまふ。さぶらひのぬしたち、「なでふ行ひ人をかう伏し拝みたまふ」とて、殿のうちゆすりて、忠君の下りたまふところに、五位、六位ひざまづきかしこまる。山伏見て、これはいとかしこき人かな。家の子なるべしと思ふに、忠こそ山伏に問ふ。(忠こそ)「いづくに住みたまふ行ひ人ぞ」。山伏、「年若かりしより鞍馬の山に籠りて、今年は三十年になりはべりぬる山伏なり。いぬる七月より修行にまかりありくに、供養絶えて、今日三日、童べにものもえばで、つかれ臥しはべれば、とり申すなり。山伏はこく絶ちて久しくなりはべりぬ」。忠こそ、「しばしここに立ちたまへ」といひて、内にはひ入りて、冬の装束ーくだりを、いと小さくたたみて、みづから持て出でて賜ひ、(忠こそ)「人などにもさらにものせじ。これを御童子の中にものせむ」とて取らせたまふ。
 弟子一人、市へ持て出でぬるに、忠こそ山伏に語らひたまふ。(忠こそ)「幼くより行ひの道に心進みてなむはべる。宮仕へせじ。親のもとにかくてはべれど、心もとまらず、身を砕きてやまはやしに交じりたまふ人なむ、うらやましく覚ゆる。かくなむと朝廷おほやけに申さまほしけれども、許さるまじければ、あらはれたる師にはえなむつくまじくはべるを、御弟子にやはなしたまはぬ」といふ。行ひ人、「などのたまふことぞ。山林に交じる者は、世の中をおぼろけに思ひ離れて、身をなきものに思ひなしてするものなり。そもそも堪へおはしましぬベしやは」。忠君、「などかくはのたまふ。行ひする人は、人の思ひをなしたまふこそよけれ。行ひ進める人を否びたまふは、ひがみたる心地なむする」。行ひ人、「安らかにならひたまへる御身の、草木、かづらの根を供養にして、木の皮、苔をし着物にしたまひなどせむには、えしも堪へたまふまじく思ほゆればなり」。(忠こそ)「安らかなることに久しかるべきことにもあらねば、今苦しくて、行く先のことを思ふなり」とのたまふ。行ひ人、「さらば御心にこそあらめ。いと尊きことなり」と聞こゆ(忠こそ)「さらばこのわたり近きところにものしたまヘ」とて、(忠こそ)「人しきもぞ見る」とて入りたまひぬ

 引きこもって5日目の朝、鞍馬から若くから山に籠もっていた行者で髪が所々白くなっている者が、弟子を3人童子を5人連れて行脚し、食糧もなくなったので大臣宅の門前に来て、千手陀羅尼を尊い声で読経した。
その声がたいそう尊く聞こえたので、忠こそは起き上がり、
走り出てみると、二人といないほどの尊い行者であると思われて、伏し拝みなさる。侍所の従者たちは
「どうして行者をここまで伏し拝みなさるのだろう。」
と屋敷中の者たちが忠こその跪きなさっているところに集まり、五位六位の者たちまでが一緒に跪き恐縮する。
 これを山伏は見て(この方はたいそう優れたお方だ。この家の子であろうか。)と思っていると、忠こそは山伏に尋ねる。
「どちらにお住まいの行者様ですか。」
「若い時から鞍馬山に籠もり、今年で30年になる山伏です。去る7月から修行として行脚しておりますが、供物もなくなり、今日で三日、童子たちに何も食べ物を与えることもできず、疲れ伏してしまいましたので陀羅尼を唱えておったのです。私たち山伏は断食を久しく行っておりますのでかまわないのですが。」
「しばらくここでお待ちください。」
と忠こそは言って、中に入り、冬の装束一式を小さくたたんで持ってきて差し出し、
「行者様たちの物としてではございません。童子様たちの物としてどうか受けとってください。」
とって、お渡しになる。

弟子の一人がそれを市に持って行く間に、忠こそは山伏とお話しになる。
「幼い時から修行の道に関心を持っておりました。宮仕えはもうしたくありません。親のもとにこうしておりますが、心も落ち着かず、身を砕いて山林に交じり修行なさっている方がうらやましく思います。出家したいと朝廷に申し上げたいが、許されるはずもないので、世の高名な師には就くこともできません。なので、ぜひあなたのお弟子にしていただけませんか。」
「どうしてそのようにおっしゃるのか。修行者は世を並々でない気持ちで思い離れて、わが身を無きものと思って出家するのです。そもそもあなたに耐えられるようなものではありません。」
「どうしてそのようなことをおっしゃいますのか。行者というものは人の願いをかなえるものなのでしょう。修行を志している人を否定なさるのは間違っています。」
「安穏とした暮らしに慣れていらっしゃる方が、草木や葛の根を食べ物として木の皮や苔を着物とする生活に耐えられるはずがないと思えばです。」
「安穏な生活は長くはないと思えば、今は苦しくても将来のことを考えてそうするのです。」
「それでは思い通りになさい。尊いことです。」
「それでは少し離れた所でお待ちください。」「誰かに気取られるといけない。」
と言って部屋にお戻りになる。

忠こそ琴に歌を残し、梅壺と歌を贈答する

 忠こそ、世の中思ひ離るるにも、二つなむありありける。一つには、かの梅壺の君に、ものをだに聞こえずなりなむことと思ひ、今一つには、年ごろ弾き遊びつるみやこ風を、また弾かずなりなむことと思ふ。また親の御上をば、さらにもいはず。おとどものに出でたまひ、人どももなき折なりければ、この琴を一声搔き鳴らしたまひて、りうかくのもとにかく書きつけたまふ。
(忠こそ)弾く人もむなしくならば
   琴の音も空蝉のみや今は調べむ
 と泣く泣く書きつく。梅壺に御文書く。(忠こそ)「あやしく、悩ましきことのはべれば、え参りはべらぬほどの久しくなりはべりにけること。なほ怠らずはべらば、えしも参らずやなりはべらむと思ひたまふるになむ、心細くはべる」とて、
(忠こそ)「泣きたむる涙の川の水深み
   あひ見でほどの淀むベきかな
わが君や、思さむことのかしこきをなむ、かしこまり思ひたまふる」とて、近く使ひたまひける童して、御息所の御もとへ奉れたまふ。
 御息所、「いかに思してのたまへるならむ」とて、御返りごと、(梅壺)「久しく参りたまはぬは、悩ましくしたまへばにこそありけれ。心細げにのたまへるは何ごとぞや。はや参りたまへ。まことや、淀みは、そがあやしきをなむ。ゆく知らずは」とて、
(梅壺)涙川底なる水の速ければ
   滝つ瀬見むと思はざりしを
 忠こそ、日暮れぬれば、行ひ人もろともに出でぬ。

(小学館新編日本古典文学全集)

 忠こそは世を思い離れるにしても、2つの心残りがあった。ひとつは、あの梅壺の御息所に何も申し上げることができなくなってしまうこと、もう一つは長年弾き遊んでいた“みやこ風”をもう弾くことができなくなってしまうことであった。父への思いは言うまでもない。ちょうど大臣がどこかにお出かけになり、従者たちもいない時だったので、この琴を一声かき鳴らして龍額(琴の頭部)の所にこのように書きつけなさる。

弾く人ももういなくなってしまうとしたら、
  この琴の音も空しくなってしまうのでしょうか。
  今だけは現し身の私が弾きましょう。
   (空蝉=現し身)

と泣きながら書きつける。
 梅壺に文を書く。
「妙に気分がすぐれませんでしたので、お伺いしない日が長くなってしまいました。もう治らないのならば、お伺いできなくなってしまうのではと思うと、心細くございます。」
といって、

泣きためた涙の川の水が深いので
  お会いできない間に淀んでしまうことでしょう。

わが君、あなたのお気持ちのもったいなさに、恐縮しております。(好きでいてくれてありがとう)」
といって、身近に使っていた童に持たせ、御息所のもとに差し上げる。

御息所は、(どうしてそんなことをおっしゃるのかしら。)と思って、返事を書く。
「長くいらっしゃらなかったのは、ご病気だったのですね。心細いとおっしゃるのは何でしょう。早くいらっしゃい。でも「淀み」はどういう意味かしら。「行方知らず」という意味?」
といって、

涙川も底の水は早いので、
  滝瀬のように熱烈な気持ちの表れを見ようとは
  思いもしませんでした。と

忠こそは日が暮れたので行者と一緒に邸を出る。


 「みやこ風」は俊蔭が波斯の国から持ち帰った琴。「俊蔭」の巻では東宮の女御に贈られたとある。千蔭に贈られたのは「おりめ風」である。作者の思い違いか、もしくは東宮の女御から忠こそに贈られたか。

 梅壺の更衣に歌を送る。事情を知らない更衣は忠こその歌の真意を理解できない。忠こそが「淀み」と歌い、別れを暗示したやるせない思いを、「滝つ瀬」(激情)と読み替え、軽くいなしたつもりで、変わらぬ二人の関係の維持を求める。

(男女の関係にあったかどうかは別として)やさしくしてくれた年上の女性は、特に母を亡くした忠こそにとっては、青春のイニシエーションだったのかも知れない。
梅壺の更衣との別れは華やかな宮廷生活との別れのメタファーでもある。
今静かに忠こそは都を後にする。

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