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霊性で撮る写真【魂の一枚】


先日、志賀高原を旅してきた。

滋賀草津道路も奥志賀林道も湯田中の温泉街も、スーパーカブで見える景色は以前と違った表情で魅力的であった。

蓮沼で水面に浮かぶ一輪の水蓮と出会った。
たちまち心奪われて 無心にシャッターを切った。
久しぶりに集中モードを超えた【ゾーン】に入った気がする。

もう理屈はいい
露出だの構図だの うんざりだ

霊性を研ぎ澄まし 中今力で撮りたい
そう思うようになって数か月

不思議とチャンスがやってきた
霊性と中今で撮る写真のチャンスだ

しかも、よりによって蓮のお花であれば
仏教的という意味でおあつらえの被写体・・・
いやいや、今のは取り消し。
有難く出会った奇跡のお花に「被写体」なんて呼ぶのは失礼だ。

僕がレンズを向けさせていただく対象は
いつでも神々しい 崇高なる美であってほしい
目の前に美しい姿を見せてくれて
その奇跡にただ感謝なのだ。

写真は立澤重良という人間が撮っているのではない。
そのボディに宿している【私という霊魂】が撮ったの。
立澤重良は指でシャッターボタンを押しただけだ。

もちろん感覚とかセンスとか、技法とか経験とか
大事なんだけど、それは最重要ではないの。
それらは写真家としての覚悟ができた人の受け皿に過ぎない。

受け皿とは奇跡やひらめきを授かる皿のこと。
音楽なら音楽家の元へ 数式なら学者の元へ
発明なら発明家の元へ みんなそれぞれの受け皿を持っている

写真家という受け皿を持っていれば 奇跡のシーンを
授かることができる。
自分ならではの素晴らしい受け皿を用意できた人のみが傍受できる神からのご褒美なのだ。
また、そういった非科学的なことを信じる勇気を持った人の特権ともいえる。

【○○家】の共通点は創造性のある個人であること
創造性をもってして 人々に感動を与えたり
社会を豊かにしたり 利他的に全体の幸福を考えられる
愛ある創造を持つ人 

ここに奇跡は舞い降りる

僕はそんな風に信じている。

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