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ドラマ『リエゾン』にみる「自分が安心したい」心理の害

発達障害のヒロイン志保は、かつてのバイト仲間に、発達障害ゆえに起こしてしまった当時の数々の不手際を謝るとともに、あたたかい仲間に感謝を伝える意味も込めて発達障害をカミングアウトしたのだが、「発達障害ってあれでしょ?空気読めないとか、忘れ物するとか。」「そんなのあるある。誰にでもある。」と流されてしまい困惑する。先方は、志保を慰めているつもり、励ましているつもりかもしれないが、発達障害のそれらの症状は、一般人によくある「それ」とは全く質が異なるものだ。発達障害当事者は、そのために日常生活に影響が出ないように、社会に被害をもたらさないようにと必死の努力をしている。「うっかり忘れちゃった」程度で済む話ではないのである。
カミングアウトしたことによって、志保は、逆に、「発達障害を言い訳にしない方がいいよ」とでもいうように追い込まれてしまう。

私は自分の難聴をごく限られた人にしか打ち明けていない。
もしこれから新しく知り合う人がいれば、まず伝えるだろうが、古くからの友人はほとんど知らない。もう会うこともないだろうし、いまさら突然伝えたところでどうなるものでもないから。

リエゾンを見ていて、自分自身のことを思い出してしまった。
もう20年近く前になるが、PTAの役員で知り合った人の中に、明るくて大らかで、時々ランチをしたりして仲良くしている人がいた。その人に、「実はね、私、耳が悪くて・・」と打ち明けた。が、返ってきた答えが、「え?そうなの?それぐらいのこと誰にでもあるわよ。私なんか見て、これ。」と指を示された。人差し指だったか中指だったか、とにかく指先が少し曲がっているのだという。「これがコンプレックスでね、なるべく隠すようにしているの」とのこと。

うん?だからなんだ?

彼女が、その指先のために、どれほど困っていて、どんな努力をしていて、どんな気持ちでいるのかは正確にはわからない。わからないが、それはそれ。私の難聴と、何か接点はあるのだろうか?

あー打ち明ける相手を間違えたー

悔いる私にさらに投げかけられた言葉が、
「でも意外。akarikoさんって、何でもできるし、何でも持っている人だと思っていたから。やっぱり一つぐらい欠点はあるのね。」

欠点。
欠点??

人を見る目がなかったのか?
娘たちが小学校を卒業して以来、付き合いはない。チャンチャン。

そんなことどうってことない。
大したことじゃない。

その手の言葉は、こちらを励ますためではなくて、自分自身を納得させたいため、自分はいい人だぞと安心したいために使われることが多い。
人はとにかく、「自分だけは」安心したい生き物なのだと思う。

中身はなんであれ、カミングアウトって本当に勇気のいる行為だと思う。
同時に、高性能なリトマス紙になりうるんだけど。

#テレビドラマ感想文

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