正しい努力とプライドを捨てた変化
ここもかなりコアな野球の話になります。
苦しんだ2年間
1年目と2年目は個人としてもそうだが、チームとしても苦しいシーズンだった。
独立リーグは前期と後期に分かれてそれぞれで優勝チームを決める。優勝チーム同士の地区チャンピオンシップがあり、リーグチャンピオンを決める。
そこで勝ち残ったチームが日本独立リーグチャンピオンシップに進出することができる。
私の所属チームはリーグ2位が最高で、2年目まで優勝を経験したことはない。
大事なところで勝ちきれないことが多かった。チームが苦しい中で私は戦力として貢献することができず、ベンチでもどかしい気持ちで見ていた。
2年目のシーズン終了後の契約更改。私は正直戦力外通告を覚悟していた。
プレーヤーとして貢献できない選手は2年を目処にクビを切られることが多かったからだ。
契約更改の席で、編成部長から言われた言葉は「お前がどうしてもやりたいというなら残す」だった。
ありがたいことに練習への取り組み方などを評価してくれていたらしい。
父親には反対されていた。このままズルズルやっていても仕方ないんじゃないか?と。
辞めたい気持ちよりも自分の可能性にまだ賭けてみたい気持ちが強かったため、球団にお願いして残留させてもらうことになった。
これが野球観と人生観を変える選択になる。
監督さんとの出会い
この3年目の年、新しい監督が就任になった。
故・野村克也さんの薫陶を受けた元NPB選手の方である。
独立リーグの監督やコーチは基本的にNPB出身の方が勤める。選手としても、NPBを経験した方が来られることもある。
この方から受けたミーティングは野球の技術的な話のみならず、人生観に関する話がとても多かった。
自分自身の存在を見つめ直すような哲学的な話から、NPBを目指す意味を問い直すような話まで多種多様。
その内容を綴った野球ノートは大切に保管してある。
変化を恐れるな→サイドスローに近いフォームに変える。
その中でも特に印象的だったのが「変化を恐れない」ことだった。
独立リーグとはいえ、学生時代は中心選手として甲子園や神宮で活躍した選手も多い。NPBの一線級で活躍していた選手もいる。
独立リーグの選手たちの第一目標はNPBにいくこと。チームの優勝ももちろん大切だが、最大目標ではない。
独立リーグにいてNPBに行けないのは、足りないものがあるから。スカウトの目に留まる「何か」がないからドラフトにひっかからない。
であれば、NPBにいくには何かを変えないと獲ってもらえない。そういう話を監督さんはよくされていた。
だが、前述したように、甲子園の大舞台などで活躍していると過去の自分を捨てきれずなかなか変化することができない選手が多い。
変なプライドが邪魔するのだ。
私はこの年のオープン戦で打ち込まれ苦しんでいた。
試合後にネットスローをしていると、監督さんから声をかけられた。
「腕を下げてサイドスローに近いところから投げたほうがいいのではないか?」
監督さんは、正しい目標設定をして、特徴のある選手になれとも常々言っていた。
自分はスピードで勝負するタイプなのか、コントロールで勝負するタイプなのか。
打者でいえば長打を打てるタイプなのか、バットコントロールで勝負するタイプなのか。
武器を見極めてそれを伸ばす努力をしなさいということだ。
私は高校時代サイドスローだったが、独立リーグでの2年間は150㎞出すことを考えてオーバースローで投げていた。
だが、2年目までのMAXは143㎞。右のオーバースローで140㎞前半ではスカウトは見向きもしない。
元々腰の使い方がサイドスローに合っていると言われたこともあったので、監督さんはそのあたりを見抜いていたのかもしれない。
だが、そのときの私は言葉にはしなかったが受け入れきれなかった。前述した過去のプライドが邪魔したのだ。
煮え切らない態度でネットスローを続けていると監督さんに「もういい。好きにやれ。」と言われて、監督さんはその場から立ち去ってしまった。
そのときの監督さんの表情は今でも忘れられない。見捨てられたような気持ちがした。
そして焦った。「このままじゃ試合に全く出してもらえないかもしれない…」と。
試合に出なかったら元も子もない。まずは監督さんに認められて評価されなければ、自分を表現する権利すら得られない。
迷いがなくなって腹を決めた。このまま変えずにやっていても、先が見えない。そもそも平凡で特徴のないピッチャーである。私は高校以来のサイドスローに転向することを決めた。
元NPBの一流選手とのキャッチボール
この年は監督さんに加えて、元NPBの一流選手が入団した。
NPBでは名球会入りを果たし、メジャーリーグでも活躍した超一流の選手である。
その方がサイドスローだったため、私はサイドスロー転向を決めてからその方のフォームを食い入るように観察した。
そんなある日、その方からキャッチボールに誘っていただいた。
監督さんがその方に見てあげてほしいと言ってくださったようなのだ。
踏み出し足の使い方、重心の移動の仕方などを教えてくださった。自分自身でも聞けることはどんどん聞いていった。
それが少しずつ実を結んでいく。
大量リードした場面や敗戦処理としての登板が続いたが、そこで結果を出して遂に先発ローテーションを任されることになる。
もちろん全ての先発登板でうまくいったわけではない。無失点で抑えていても四死球を出して降板させられることもあった。
だが、投手陣全体が不安定だったこともあり、先発としてのチャンスは何度もあった。
そして6月に、先発としての初勝利を無四球完投で掴んだ。先発で勝ったのは3年目で初めてだった。このとき、リーグの投手十傑に名前があったのも嬉しかった。
6月以降は打ち込まれることが増えて、中継ぎと先発をいったりきたりになり安定した活躍はできなかったが、3年間で1番チームに貢献できた年であったことは間違いない。
大した活躍ではなかったが、成長できた要因としては「変化すること」を選択したことが大きかったと思う。
現状をなかなか打破できない時は、変化することで進化を試みると何かきっかけを掴めるかもしれません。
私は今、学校のルールや現状に変化をもたらすためにアイディアを貯めているところです。
長くなったので独立リーグ編は3編でいきます。
次はチームの変化を書いていきます。ありがとうございました。
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