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「生きるの無理かも」目を閉じた朝

 「こうしたら寛解に向かいます」「大丈夫です」とnoteで人を励ましている一方で、自分の「生きるの無理かも」がどんどん溜まっていった。朝、目が覚めても布団から出られない。俯いた姿勢では呼吸が苦しいのに、苦しい呼吸に身を任せて俯いている。スマホのアラームがけたたましく鳴る中で、どうしよう、だけが頭を占有する。5分以内にシャワーを浴びて服を着替えて化粧しなければ、ああ、あと3分以内にしなければ……。なんとか布団を這い出て、支度をして、出社するイメージを膨らませてみる。駄目だった。進んでいく時計を横目で見ながら、私は「あと10分したら上司に電話で休むことを伝えよう」に切り替えた。そう思うと、後ろめたさがありながらも、楽になったような気がする。時間がすぎていき、出社するはずであった9時30分の15分前に会社に電話する。受話器越しに「ゆっくり休んでくださいね」という上司に「申し訳ございません」と言い、通話を切った。

 人生は幸せではあったものの、客観的に見れば順調ではなかった。小学校5年生で両親が離婚し、中学校では勉強を頑張ったが高校では遊び倒した。金銭的に国公立大しか受けられない環境だった。受験に失敗する。高校三年生の後半からなんとなく様子がおかしく、浪人生で統合失調症を発症する。中学高校時代の友人たちに喧嘩をふっかけて、友達はいなくなった。3ヶ月の入院を経て、退院した。1年かけて寛解に近づけて、さらにアルバイトを1年頑張ってから、クローズの正社員になる。その7年後に、自己判断で薬を止めて再発。7年かけて作っていった人間関係をまたリセットして、また3ヶ月の入退院を経て、アルバイトを1年頑張ってから、クローズの契約社員になる。クローズ雇用だけれど、上司にだけは障害があることを伝えた。

 7年間のクローズ正社員時代にはいろいろなことがあった。けれど、この期間は病気について意識することはなかった。薬を飲んでいる普通の人という気持ちで障害者手帳も発行しなかったし、障害年金も受給しなかった。当時の恋人は私を健常者と同様に扱った。それは逆に言えば、理解を得られなかった証でもあった。薬を止めたことで、私の機嫌が悪くなり喧嘩もした。喧嘩から発展して、同棲していたにも関わらず1ヶ月間も相手が口をきいてくれない時期があり、無視され続けた。雨の中でちいさな家出をしたけれど、探しにくることはなかった。当時は何も問題ないと思っていたが、こうして並べているとなかなかに酷い人だったと思う。

 布団の中で目を閉じる。そんなことを思い出す。でも、幸せをずっと感じている。閉鎖病棟で身体拘束された時も、尊厳を失いながらも、心のどこかで私は「幸せだ」と感じている。なぜだろうか。いま「生きるの無理かも」と思いながらも、今この瞬間はきつく暗くても、3年後の私は幸せだろうなと確信している。今までそうだったから。

 次の日、私は朝起きて仕事に行くことができた。その次の日も、仕事に行くことができた。先週を振り返りながら、仕事には行けたけれどやっぱりつらくて、喫茶店で泣きながらこの文章を書いている。生きるの無理だけど、今日だけでも頑張ってやる。

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