2018/3/27 東日本大震災の被災地への旅
私が旅をするきっかけ、そして自分自身と向き合うようになったきっかけとなった、東日本大震災の被災地へ行った高校卒業旅行の記録を紹介する。
初めて行ったのは2年半前の2018年3月だけど、自分の価値観が明らかに変わったというほど発見が多く、とても思い出深い。そんな東北被災地旅のシリーズをこれからしばらく紹介していこうと思う。
東日本大震災が発生したのは2011年3月11日で、当時私は小学5年生。
地震・火災・津波・原発、東京でも液状化や計画停電など…
当時ヤバいことが起きてるのはわかったけど、正直実際に東北で何が起こったかよくわからず。
テレビも特撮やSFでもないのにありえない光景ばかり。
現実離れしていて、日常が失われてしまったことの方が悲しかった。
そして正直に言うと実際に訪れるまで、遠い地域で起こった自分とは関係ない事というイメージしかなかった。
いや、実際に今も訪れていなかったら、全く意識せずに3月11日に「そういえば今日は東日本大震災か」と思う程度だったろう。
当時の想いを読んでみると、今以上に未熟なのでわからない点も多いかもしれませんが、読んでいただけると幸いです。一部簡単な補足もあります。
***2018年3月27日***
一ノ関から東北本線、釜石線、三陸鉄道、BRT含む大船渡線を経由してきました。
今回の記事では東日本大震災の遺構(奇跡の一本松など)も紹介するので苦手な方はご注意ください。(震災当時の写真はありません)
2018/3/27
一ノ関730→(東北本線)→花巻823-912→(釜石線)→遠野1001-1306→(釜石線)→釜石1355-1425→(三陸鉄道南リアス線)→盛1518-1601→(大船渡線BRT)→ まちなか陸前高田1644-(徒歩)-奇跡の一本松1801→(大船渡線BRT)→気仙沼1827-1936→(大船渡線)→一ノ関2055
花巻は宮沢賢治の故郷。また訪れたいですね。
花巻から快速はまゆり号に乗車。かつては急行列車だったため、キハ110ながら座席は転換クロスシートでした。
指定席車がある定期快速列車ももう少なくなりましたね。
途中の遠野でいったん下車。日本昔話・民話のふるさとだとか。河童の伝説もあり、駅前には河童の銅像がありました。
僕は買いませんでしたが、観光案内所などではカッパ淵という場所で河童に出会った時捕まえられる、カッパ捕獲許可証といったものまで販売していましたw
南部神社の展望台から。真ん中の道路の先にあるのが遠野駅。さすがに大きな町だなと思います。
どうやら盛岡や花巻、水沢江刺、北上といった米が取れる内陸部と釜石や大船渡、宮古などの魚介類が取れる沿岸部との間に位置する交通の要衝となったため、山に囲まれながらもとても栄えたみたいです。
1のつく日に市場を開催したそうで、さぞにぎわっていたのでしょうね。
豊かな自然を神として神聖なものとした。遠い地方から山越えをして多くの人が集まる。不思議な民話が遠野に広まっていった理由かもしれません。
遠野市立博物館と物語の館見学が目的だったので写真はほとんどありません。
そのあとは釜石へ。
山田線は運転見合わせですが、近々三陸鉄道に委託して復旧する模様。
駅前には工場もあり、小佐野あたりからもう住宅街で活気があったので、駅前に限れば、山田線が運転見合わせている以外はだいぶ復旧が進んだのだろうと思いました。
三陸鉄道の50分の旅。恋し浜と綾里湾。
車窓から見ると、僕が衝撃を受けたあの津波を起こしたとは思えないほど穏やかな海でした。
終点・盛に到着。
大船渡線の気仙沼~盛間は”仮”復旧としていまだにBRTが走っています。
BRTに乗り換えて奇跡の一本松を見に行くことにしました。
正直、釜石と盛を見ていたら一部おかしなところはあるとはいえ、普通の街のように復興していたので陸前高田もそんな感じだろうと思っていましたが…
このありさま。
陸前高田のことをよく調べなかった僕が悪いとはいえ、7年たってもまだ復興したとは言えない状況で言葉を失いました。(まちなか陸前高田付近での撮影ですが)
また津波が来ても大丈夫なように堤防のかさ上げをしているようで、工事をするトラックやショベルカーが道を頻繁に通り、砂埃が舞っていました。
街づくりの前に再び津波被害が出ないようにするための工事中なので当然ですが、大きな建物は近くのスーパーと奇跡の一本松の近くの土産物屋くらいしかなかった印象があり、復興はまだまだ先だろうという気がしました。
こういう景色を見ると、なぜ”奇跡”といわれるかは分かった気がします。
7万本くらい松があったんですがあの津波は1本を残してすべて消しさりました。(実際の木は枯れてしまったので作り物ですが)
松原に囲まれ、頑丈なはずのユースホステルも倒壊してしまい、被害の大きさをますます感じさせられました。
そして、この近くで工事をされていた方の「もう震災前のようには戻らないだろう」という言葉が今でも忘れられず。
自然は時に恐ろしくなると改めて感じました…
何となく虚無感に似たものをもってBRTに乗って気仙沼へ。
大船渡線の一ノ関~気仙沼は鉄道復旧したものの、気仙沼線と盛まではいまだに仮復旧でした。
一ノ関~気仙沼はポケモントレインなるものが走っているようなので、ピカチュウがあります。夜見たらちょっと怖いですが(笑)ポケモンが好きなので1度乗ってみたいなと。
最後に大船渡線の最終の一ノ関行きで戻り、
仙台行き最終列車を見送ってホテルに戻りました。
*
読破お疲れさまでした。(まだ二日目ですが)
テレビで初めてあの津波を見たとき、正直なところ日本であんなことが本当に起きたとは思っていませんでした。
東北の方に怒られそうですが、高校生になっても作り話だったのではないかとさえ思っていましたが、
実際に被災地に行ってみると、被害を受けたことを自分の目で見て、7年越しにようやく3・11のことを現実に考えさせられ、そしてその恐ろしさを思い知らされました。
東京に住んでいる私には東北の方の気持ちはわからないといわれるかもしれませんが、これからは少しでも東北のために力になりたい。そして東北のことを今までよりさらに応援したいと思いました。
所詮貧乏学生ですが口だけでなく、行動にも表せるようにしたいです。
***引用終了***
当時の記事は以上です。
なんというか、今読み返すと我ながら本当にいい経験をしたなとつくづく感じる。
まだまだ課題はあれど復興に向かっていると今でこそわかるが、当時はこんなに被害が大きく、しかもそれを全く知らなかった自分の情けなさと自分に何もできないという悲しさや虚しさを感じていた。
当時はそんな自分を悔いているが、裏を返すと特別な先入観がなかったので、見聞きしたものがそのまま純粋に自分の体に受け入れられている。だからこそ穢れのない正直な感情となったんだなと思う。
無知は罪というソクラテスの言葉があるが、無知だからこそ得られるものも多いのではないかと思う。
当時のその想いは今も大切にしようと改めて思った。
***
東日本大震災といっても、
盆地や内陸の福島・盛岡・一関・遠野、
沿岸部だけど割と復興しつつある仙台・釜石、
まったく復興が進んでいない沿岸部の陸前高田・気仙沼・浜通りなど…被害には違いがあったし、それぞれ様々な発見があった。
東北3県と呼ばれる岩手や宮城、福島の大きさ、そして被害と復興状況にも大きな違いがあった。
それほど東北は大きい。だから、東北地方すべてが壊滅みたいに言われるのは違うと思うし、逆に完全に東北は復興したというのも違和感しかない。
ちなみに、今では陸前高田にも震災の伝承館が建ったり、高速道路やBRTの道も舗装されて、少しずつだけど確実に復興に向かって雰囲気も変わりつつある。東北で被害や文化を忘れさせないだけでなく、新たなまちやコミュニティを創ろうと奮闘している人々や団体もいる。
復興はまだまだ道半ばという言葉より、少しずつ着実に復興に向かっていると前向きにとらえるべきだろう。
次回は半年後に気仙沼線BRT経由で陸前高田を再訪した記録を紹介します。
↓今回の当時の記事
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