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エムス電報事件④~ナポレオン3世という男(前編)

前回はこちら。

【ざっくり内容紹介】

 ナポレオン3世(1808~1873)はフランスの皇帝。世間的な評価は芳しくないが、実際のところはどうだったのか…

1.ナポレオン3世とは何者?

 普仏戦争では、ビスマルクの陰謀の被害を受ける形となったナポレオン3世。軍事的天才だったナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)に対し、甥のナポレオン3世の評価はあまり芳しくない。伯父の七光りによって皇帝に上り詰めたものの、最後はプロイセンに敗れて捕虜となり、皇帝を退位するという末路のためであろう。


 しかし、彼の生涯をよく検討すると、「無能な男が大衆迎合で成り上がった」という単純なストーリーでもないことがわかる。むしろビスマルクに負けないほど複雑で、一筋縄では行かない人物である。

2.ナポレオン3世が皇帝になるまで

 1848年2月、パリで革命が起きて国王ルイ・フィリップが退位し、王政が倒れた(二月革命)。こうして成立した臨時政府(フランス第二共和政)のもと、ルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)は代議士に当選する。
 第二共和政の政治家たちが政情の安定化に失敗する中、ルイ・ナポレオンは伯父の名声を背景に大統領に当選。1851年、クーデターによって政敵を一掃すると、翌年に国民投票によって皇帝に即位した。こうして始まった政体をフランス第二帝政という。

3.実は庶民のために尽くした皇帝?

 ナポレオン3世の治世は、労働者のための衛生的な共同住宅や、パリの都市改造など多くの社会政策が実行された。「ナポレオン3世の支持基盤は民衆にあったので、彼の政策は民衆に迎合していたのだ」と説明する人もいる。だが、その理解は果たして適切なのか。


 政界入りする前の1844年、彼は『貧困の根絶』という著作を書き上げている。「労働者に権利と未来を与え、協同と教育と規律によって彼らを立ち直らせなければならない」というのがナポレオン3世の主張であった。
「貯蓄しないのは本人の贅沢、怠慢のせいだ」というありがちな批判に対し、彼はこう反論する。
「食べるものもない人間に対して、持てるはずのない金を毎年貯蓄しろと勧めることは、およそ話にもならない暴論であり、まったくのナンセンスである」


 マルクスやエンゲルスが『共産党宣言』を発表したのが1848年だということを考えると、かなり先進的な思想である。ナポレオン3世の充実した社会政策は、彼自身の独自の哲学のもと実行されたと言っていい。(後編に続く)

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