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エムス電報事件⑤~ナポレオン3世という男(後編)

前回はこちら。

【ざっくり内容紹介】

民衆のための政策を志向していたナポレオン3世。しかし、その「大衆志向」が彼の足元をすくうことに…

4.ナポレオン3世治世前半の「権威帝政」とは?

 前回、ナポレオン3世が労働者など下層階級のための政策に力を入れたことを紹介した。

 面白いのは、人民のための一連の社会政策は、ナポレオン3世の独裁体制のもとで実行されたということである。新聞の規制は強く、発行停止などの処分を恐れて報道は委縮した。第二帝政の前半は皇帝に権力が集中したので「権威帝政」とも呼ばれる。


 第二共和政を主導した政治家は、多くが党派対立を激化させ、政情を不安定化させた。ナポレオン3世が目を向けていたのは、そうしたインテリの政治家や言論人ではなく、労働者・農民といった下層の民衆であった。


 このことは、フランス帝国の政府内に奇妙なねじれを引き起こすことになる。ナポレオン3世の手足として動くべき大臣や官僚たちは、必ずしも大衆に共感を持っていたわけではない。そのため、彼らが皇帝にとっての抵抗勢力となる局面も出てきたのである。

5.「自由帝政」への転換

 1860年を境に、ナポレオン3世は議会の権限を大幅に強化する改革を進めた。選挙で選ばれた議員が、国政を左右するようになったのである。「権威帝政」から「自由帝政」への転換であった。ナポレオン3世は、既存エリート層に期待するのではなく、民衆の支持を受けた政党との協力を模索するようになったのである。


 ナポレオン3世の人物像をとらえる難しさは、ご理解いただけただろうか。彼はクーデターをきっかけに独裁に近い体制を作ったり、かと思えば自由を拡大したりと、行動がその都度矛盾するように思える。しかし、頭の中で理想を持ち続け、その実現のために動いたと考えれば一貫しているのである。

6.ナポレオン3世の誤算とは

 しかし、ナポレオン3世が苦心して確立した自由帝政は、皮肉にも自身の首を絞めることになる。1866年12月、ナポレオン3世は軍事大国プロイセンの脅威を踏まえ、軍拡の指示を出した。しかし、議会の反発にあって皇帝の軍拡案は骨抜きにされてしまった。フランスは弱体な軍備のまま普仏戦争に臨み、敗北を喫することになる。


 また、エムス電報事件においてフランス世論が激高すると、議会も開戦へと舵を切った。ナポレオン3世自身は戦争を望まなかったが、高齢で持病の悪化した皇帝に議会を止める気力は残っていなかった。


 1870年9月、セダンの戦いで敗北したナポレオン3世は捕虜となり、皇帝を退位。フランス第二帝政は崩壊することになったのである。

続きはこちら。


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