エムス電報事件⑥~普仏戦争前夜の外交戦
※写真はドイツ皇帝(プロイセン国王)のヴィルヘルム1世。
前回はこちら。
【ざっくり内容紹介】
エムス電報事件のきっかけとなった、スペイン王位継承問題を解説。断絶したスペイン王位をプロイセン王の親族が継ごうとしたが、フランスの反対で断念した。
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1.ビスマルクはなぜ対仏戦争を望んだか
ドイツ統一事業の仕上げとなったのは、1870年に始まったプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)である。これまでバラバラであったドイツが統一されれば、ヨーロッパ中央部に強大な国ができることになる。とりわけ、国境を接するフランスの利害と衝突するため、フランスが統一の妨げになることは必至だった。
また、当時はドイツ・ナショナリズムが台頭していたとはいえ、全ドイツが一枚岩にまとまれるかどうかには不安もあった。ドイツ北部はプロテスタント、南部はカトリックが多いなど、諸領邦ごとの違いも多く、利害調整が難しい。ドイツ諸領邦が強力にまとまるには、共通の敵を外に作るのが確実だ。入念な準備の上でフランスを打ち負かし、そのすきにドイツ統一を達成する――これがビスマルクの描いたシナリオである。
そして開戦の口実として、フランスを挑発して先に攻撃させようと考えた。この状況下で生じたのが、有名な「エムス電報事件」である。
2.スペイン王位継承問題とは
まず、背景となる「スペイン王位継承問題」を紹介しておく。1868年、スペイン国内の反乱により、女王イサベル2世が退位した。これに伴い、スペイン王位の継承者問題が持ち上がる。この時、プロイセン王家(ホーエンツォレルン家)の一員であるレオポルトが、スペイン王の候補となった。
フランス皇帝ナポレオン3世も、特に反対の意思はなかった。しかし、フランスの議会や世論は猛反発する。同じ王家の国に、フランスの東西を挟まれる形になるからだ。フランスの政治は、もはやナポレオン3世の意思だけでどうにかなる状態ではなかったのだ。
結局プロイセンが折れ、レオポルトはスペイン王位を辞退することになった(結局、スペイン王はイタリア王家から迎えられた)。
3.なぜ大使は温泉地バート・エムスに行ったのか
フランス外相のグラモン公爵は、これでも満足しなかった。ヴィルヘルム1世が滞在するドイツの温泉地、バート・エムスに、大使ベネディッティ伯を派遣し、「将来もプロイセン王家はスペイン王位を要求しない」という約束を引き出そうとした。
しかし、ヴィルヘルム1世はその要求を拒否する。1870年7月13日のことだ。ヴィルヘルム1世の側近は、バート・エムスからベルリンにいるビスマルクに、会談の内容を電報で送った。これが問題の「エムスの電報」である。
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