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エムス電報事件⑨~事件の影響を検証する(前編)

前回はこちら。

 スペイン王位継承問題でプロイセンが譲歩したことは、ビスマルクにとっての外交的敗北だった。しかし、バート・エムスからベルリンに打電された電報は、皮肉にもビスマルクに起死回生のチャンスを与えることになる。

1.「エムス電報」が公開された経緯

 ヴィルヘルム1世とフランス大使のやり取りがあった当日の7月13日午後9時、政府寄りの新聞である「北ドイツ一般新聞(北ドイツ新報、Norddeutsche Allgemeine Zeitung)」の号外で「エムス電報」が公表された。


 同日夜、ドイツの諸領邦やヨーロッパの主要国の公使にも打電され、現地の政府がその内容を知ることになった。

2.戦争に突き進んだフランス世論

 7月14日、新聞を通じてフランス市民たちが「エムス電報」の(改ざんされた)内容を知ると、同国世論は激高する。くしくもフランス革命勃発の記念日であり、フランス国民のナショナリズムが煽られやすい状況であった。パリの夕刊紙はプロイセンとの敵対を煽り、民衆は議会の建物であるパレ・ブルボンを取り囲んだ。


 皇帝ナポレオン3世には開戦の意思はなかったが、皇妃ウージェニーの他、政府要人も多くが開戦論に傾いていた。さらに悪いことに、すでに60歳を超えたナポレオン3世は、持病の膀胱炎の悪化などで気力が衰えていた。当時内閣の首班であったエミール・オリヴィエは、15日に戦争のための緊急予算案を立法議会に提出。この際、共和派の政治家ティエールのみが反対を表明したが、その声は野次の中にかき消されてしまったという。


 開戦はフランス世論の意思であり、ナポレオン3世個人の意思ではもはや止められなかった。7月19日、フランスはプロイセンに対して宣戦布告。ビスマルクは同盟国の南ドイツ諸領邦の協力を取り付け、ここに普仏戦争が勃発する。ナポレオン3世自身が作り上げた「自由帝政」の政体が、皮肉にも命取りになったのである。


 以上が、エムス電報事件が与えたフランスへの影響として、よく知られている筋書きである。一通の電報を「嘘をつかない程度に手を加えて」発表し、世論をミスリードしたビスマルクの狡猾な手腕が、これまで強調されてきた。


 もっとも、歴史の研究は広く知られた通説に疑問を投げかけることもある。すなわち、エムス電報事件が普仏戦争開戦に与えた影響は、あまり大きくなかったとする研究が登場しているのだ。

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