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「ふわりんくる~じょんSD ~感染症が当たり前にある時代に暮らす~」2020年5月30日

5月30日(土)にライブ配信で行われた「ふわりんクルージョンSD」の冨田の発言とその意図について書いた内容です。アーカイブで配信されています。いまからでも観ることができます。分断化されているわたしたちの今、高度に医療化された中に生きている私たち。そして、新しい生活様式の社会とはユニバーサルデザインな社会でもあるといった論点でお話をしています。
1.わたしたちはすでに感染している
2.私たちは「高度に医療化」した社会に暮らしている
3.「分断化」される社会
4.私たちはまきこまれてはいけない
5.変わるべきは何?変わらぬべきは何?

5月30日(土)ふわりんくるーじょんSDの動画が霞ヶ関ナレッジスクエア(KK2)https://www.kk2.ne.jp/kk2/biz01/spc12.html (無料登録をしていただいたら視聴ができます)にあがりました。当日、観ることができなかった方もご覧いただけます。特に私としては2部の川北秀人さんのお話しから地域を見る視点、新型コロナで見えたことは、来たるべき超々高齢社会を迎える私たちがこれから何をしていかなければならないか?を一緒に考えるヒントにしていただければとおもいます。

さて、このふわりんくるーじょん。毎年冬に行われているプログラムです。今回の主催人である戸枝陽基さん(たち)が、はじめてから昨冬で10年のプログラム。私もブログでもこれまでも紹介しています。 http://totutotu.seesaa.net/article/472768376.html
http://totutotu.seesaa.net/article/472872975.html

 実は、このプログラムのシンポジウムはだいたいが時間不足で、「わー」と拡がって、課題を共有して、みなさん考えてね。というスタンスです。
そして、今回も同じくそんな感じ。また、私へのオーダーも決まっていて「違う切り口」「違う視点」をもってきてほしい、です。
 今回は特に、ミクロからメゾ、マクロへの視点を【時間軸】すなわち、「コロナの前からみえてきていて」、「それがコロナではっきりしてきて」、「今後どうはっきりしていき」、「それをどう考えていくか?」ということでした。
 15分の枠でお話しができることも限られていましたし、今回のシステム上、パワーポイントを手元配信ができなかったために、情報量をかなりしぼりました。なので、補足も含めて公開をします。先にBLOGで配信したものが6つにもわかれてしまったので、まとめてここにはりつけただけですのであしからずて体裁を整えています。

そうそう。KK2にせっかく登録してくださったみなさん。
1部の聞き手の山口久美さんが自閉症についてのお話しをしている動画があります
https://www.kk2.ne.jp/kk2/biz03/autism01.html
ぜひ、どうぞ。

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1.私たちはすでに感染している**

 ・この4ヶ月(2020年の1月から)私自身が感じてきたこと。
 ・ウィルスそのものの情報をみながら、二次的、三次的に見えてきたもの。
 ・ウィルスの専門家でも感染症の専門家でもないわたしたちが、自分たちが、働いて、かかわっている分野で。そして、一生活者として感じること。

・自分たちで「自分たちを管理できない人たち」との毎日のかかわり。重症心身障害の方や行動障害のある方とのかかわりは【密着】、【密接】の毎日。
・生きづらさをかかえている人たち、精神障害者の人たち、
・そして、毎日のリズムをかえることが難しい人たちにかかわる中で、

 政府や社会が「コロナ対策」として言われることには絶望しか感じない。何もできない、どうしようもできない。毎時毎時絶望のアナウンスを聞き続ける。
 そして、さらに何も手に入らなくなり、米すらもパニックでなくなってしまうかもしれない都市の恐怖。

 COVID-19パンディミック(以下、パンデミック)がおびき出してきたもの、白日の下にさらしてきているもの。社会的弱者と言われる人たちがさらに弱者たり、大きな崖の下に突き落とされている。
 分断化されたのだ私たちは。
 それを特に自覚させられたし、それでも前をむいて、今後を考えないといけないと思ったレポートがこれ ↓ もう元に戻ることはないのだ

There will be no 'back to normal'

イギリスNESTA(科学技術芸術国家基金)が2020/4/9に出したレポート
日本語で紹介されているのはこちら

私たちはこのウィルスが存在することを前提とした社会に生きなければならず、かつ、その影響を強くうけてしまった社会に生き続けていく。それは、日本で、感染が拡がり、発症するしないではなく=感染リスクにより分断されるだけではなく。日本はCOVID-19のウィルスが蔓延する前に、パンデミックがおこり、みんなが感染してしまった。

もう一度いう
 すでに日本社会は「新型コロナウィルス」に感染してしまっているのだ

cf 日本赤十字社 http://www.jrc.or.jp/activity/saigai/news/200326_006124.html

 3月26日 つまりは緊急事態宣言がでる前(現在では、もっとも感染が高くなっていた時期といわれている)に日本赤十字社からこの警告はでていて負のスパイラルをたちきろうというメッセージがでていた。

 しかし、東京や大阪の知事の大号令と緊急事態宣言によって「不安」から「差別」へのスパイラルは増長した。

 極めて皮肉なことに、「日本の新型コロナウィルス感染症」は、
 一部の外国メディアで「奇妙な」成功といわれ、あげくに日本の一部の医者たちまでもが、この新型コロナの感染の第一波が(欧米のようなロックダウンをしていないにもかかわらず)いったんおさまりつつあるのは、「日本社会特有の『同調圧力』である」といいはじめている!

 社会の、市民の「同調圧力」が、仮にこの新型コロナウィルスの感染を一時的にでも押さえこめている要因だとするならば(そんな非科学的なことと突っ込みたくなるが)、すでに私たちは【差別】という第3の”感染症”に深く感染している。

2.私たちは高度に「医療化」した社会に暮らしている

 「高度に『医療化』した私たちの社会」というと、勘違いをされる人もおられるかもしれない。ここでいう「医療化」というのは、社会(科)学で使われる「医療化」のことで、「高度医療が存在する社会」という意味ではない。

簡単にいうと、医療化-Medicalization-した社会というのは、

「現代では健康への関心が高く、具合が悪ければ病院に行くという行動も進み、人の誕生から死まで、多くの問題が医療の対象となっています。 これまで医療の対象ではなかった身の回りの問題が、医学や治療の研究・対象となることを、「医療化」と呼んでいます。」
一般的な説明としてはこの大学の先生のいいまわしがわかりやすいでしょうか 出典はリンク)

 学術的にはWikipediaからひくのは反則だが、ここではそれが本題ではないので、医療化に興味をもたれるかたは簡単にわかりやすく書いているので参照してほしい。
 私がここでとりあげた「医療化」は、I.イリイチの「脱病院化社会」が論じた社会の延長線上にある。しかし、I.イリイチが言ったような「医療が帝国主義的に社会を支配する」という現象だけをさしているわけではない。

 今回のコロナ禍で日本で見えてきているのは、実はパンデミックによって新しくおこされたことではない。

 私たちの日常的な生活(ここでは、コロナ前・中・後含む)がいかに「医療的な情報」に侵食されきっていたのかということが「白日の下にさらされた」と感じている。侵食なのだ。浸食ではない。侵され食われている。

 それは、「医療の社会学」で言われる 日常的に医療の対象でなかったものが医療の対象になる、というレベルではなく、

(それが科学的であろうとなかろうと、エビデンスがあろうとなかろうと)
「医療的な情報がすべての判断より優位になるという」権力
(おそらく 生権力=M.フーコにあたるのかもおもう)が、
私たちの世界に厳然と存し、すべてに管理的であり、優位になっているのだ。

それは「医学的に証明されている」ことなのか?

TVで、○○というお医者さんが言っていた

 そのことがすべてに優位なのだ。支配的なのだ。
 もちろん、これは今回の「専門会議」が政治的主人公になり、「医療が政治的にも優位である」という【ショー】を作り出した日本社会のことも含んで揶揄している。

 そして、さらに私たちが注目しなければならないのは、
 そこには、医療者、医療従事者という「」はいない。
 「権力的な医療的なもの」があるだけ。
  -最前線で戦っている-お医者さんや看護師さんはいない。
?医療者は「モノ」でしかない。
  机の上の「1」という数字でしかない。?
医療従事者さえ差別される  TVの中ではヒーロー/現実には「穢」


 もう一つ全く違う病院に関することでいえば、
 コロナ前から言われていた日本の国民の健康志向や「病院依存」?がはっきりとみえた?のかもしれない。今回、パンデミック下で「病院がもっとも感染リスクが高い」ということが言われ、みんな病院に行かなくなった。
 一部では、まことしやかに「いまが適切な日常的な医療アクセス頻度ではないか?」といわれるようになった。日本がずっと悩んできた(高齢化社会の中で医療費がかかりすぎる)医療(病院)アクセスがよいがゆえの
過剰な「医療(病院)への依存」が、オンライン診療の導入もあいまって適正化されているということも言われている。
 ただし、これは二次的、三次的にどうなっていってしまうか、という課題はある。予防接種の未接種率、検診の未受診も増えている。単純には、結論づけることはできないが、地域の医療システムの問題ともあいまって、みえてきている課題である。つまり、(地域)の医療計画が実は、数的な病床コントロール計画であり、機能的に計画が作られていたわけではなかったことが明らかになってきているのだ。

3.「分断化」される社会

COVID-19の対策として登場した
「ソーシャル・ディスタンス(社会的距離)」「ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離の確保)」
(注:WHOはすでに、「フィジカル・ディスタンス(身体的距離」「フィジカル・ディスタンシング」(身体的距離の確保)」に言いかえている)。
 その典型的な「対策」の柱=「人と人との接触をさける/距離をとる」によって、私たちの「関係」は分断された。

 私たちは
 【物理的な関係性】、例えば【人と人の身体的な接触】、【対面での会話】、【グループでの会合】、そして、【自由な移動】を断ち切られた。

 ドイツのメルケル首相が-旧東ドイツ出身者らしく-国民にむけた演説を覚えている方も多いだろう。

移動の自由を苦労して勝ち取った私のような人間にとって、こうした制限は絶対に必要な場合にのみ正当化される

COVID-19は私たちが「あたりまえに」持っていた いろいろなものを「分断」した。(ウィルスは目に見えないから、ウィルスそのものが私たちの社会を分断したわけではない)。

「どのようにして」分断したのか?を問うのか、
それとも「何が分断されたのか?」を問うのか?
それとも「何がどのようにして分断されているのか?」を問うのか。

実はこのことに、私たちは恐ろしいまでに無自覚である。
なぜ分断されているのかを明確に語ることができなくなっている。

メルケル首相は同じ演説で次のようにも言った。
「困難なときにこそ人にいてもらいたいものだが、現時点では逆効果」と語り、直接会わずとも「愛情や友情を示す方法」を探すよう呼び掛ける。電話や手紙を使った疎通も挙げ「人を孤独にさせないさまざまな手段がある」と、支え合う大切さを説いた。

身体的な距離が離れることが、イコール、社会的な距離をとることではない。

はずなのに・・・

 単一化された「正しさ」の蔓延化している私たちの社会は、まず、【感情的な分断】に陥った。
 おそらく日本では、とても早い時期に「不安」がすぐに蔓延し、差別行動が侵食した。第三の感染=差別がすすみ、感染者=悪者という分断が訪れた。感染者は、悪い行動=「悪魔の巣窟」で出入りをして感染をした悪者である。あたりまえの話であるが、いつ・どこで・だれから・もしくは、どこから・このウィルスに感染したのか?を特定することは(いまの時点でも)できない。それなのにあたかもその行動によって感染したとラベリングされ感染者は「悪者」である。
 生物学的には、ウィルスに感染することは、すべての人に平等に起こる現象である(現時点の知見に基づくと)。それなのに。。。なぜ日本では、感染者は「悪者」になるのか?

 一般的に、【感染症】は社会的な要因を多く含むと言われている。
 歴史的にみて、私たちの世界は都市化により、感染症の蔓延とその「戦い」の激しさを増したといわれている。
 感染リスクは、貧富の差による不平等、経済格差、密集した住宅環境、衛生状態、きれいな水へのアクセスにより大きく変わる。
 このウィルスでもそれは変わらない。他の細菌やウィルスの感染症とリスクは特に変わらず、貧富の差による感染症リスクの差は厳然と生じている。
 もともと貧富の差が激しくなっている日本において、だからこそ簡単に【分断】が起こったとも言える。貧富の差が「見えづらかった」状況から、はっきりと感染リスクにより「見える化」されたのである。
 欧米では「essential worker」!、と、「社会をささえる」と賞賛されている人たちは、通勤を逃れて在宅ワークをすることもできず、感染リスクにさらされる。だからこそ欧米では賞賛されてるのに、日本では、医療職、特に看護職や介護職は差別の対象になり、飲食や観光などの(もともと非正規労働者が多かった)業種の従事者は仕事を失ってしまった。すでに見えていた貧富格差ではなく、「見えなくなっていた経済的な格差による」分断が現れた。(注:欧米でももちろんessential workerがすべて賞賛されているわけはないという指摘もある)

そして、このウィルスにおいては、さらに重なるようにどんどんと分断が起こる。それも日本社会の【そもそもの】問題を顕在化させながら。

・covid-19により各国で行われているロックダウンは、健康の不平等化をすすめると指摘されている。
 そもそもcovid-19でハイリスクグループに属する人たち(高齢者、基礎疾患有者、など)は、健康の不平等化にさらされるグループと親近性がある。

・ハイリスク・グループは、「彼らを守れ」という旗印に、さらにロックダウンをさせられる。施設は「要塞化」し、地域のハイリスク者は日本社会の「同調圧力」によってロックダウンさせられる。
高橋泰氏の発言「エビデンスからみた新型コロナへの対応―第2波に備え医療態勢をどう整備すべきか―」

・同時に、ハイリスク・グループをケアするものは、副次的にそのグループに属させられる。

 「インクルーシブ」や「共生」と言っていたのが、すべてこのウィルスのせいで【分断化】されてしまう。「高度に医療化」した中での「正しさ」や「正義」によって。
 日本は超高齢社会である。こんな分断化をしてしまえばどうなるか?
それは、ハイリスク・グループを家族や知り合いに持たない一部の富裕層のみが支配する社会の誕生を示唆する。
 抗体検査のパスポートを持たずとも、社会の分断化により彼らはさも「未来へのパスポート」を手に入れたように振る舞うことができる。

 しかし、さらにそれは表だっては現れない。「建前社会」の日本では、心に血を流すような精神的なストレスを(自覚したり、わかっている人は)いま、負っている。この社会の生きづらさを感じ、なんらかの可能性を感じ、行動し、生きている人間に対して、透明人間が鎌をふるうように【分断化】を断行している。

 それは、辛うじて支え合って超高齢化社会を生きてきた人たちに、(M・フーコーがいったような)「生権力」を使って分断を行っている。
「生きることが正しい。生命を守ることが正しい。それをあなたはなぜ否定できるのですか?」と。
「あなたの大切な人の生命を守るために必要だといわれていることに、なぜ否定するような行動をするのですか?」と。
 そう「政治」が私たちの私生活に深く侵食している。

 ことばを変えていえば、もっと簡単だ。
 マスクをつけてられない、家に健全にいること(オンラインで人と交流ができる、など)ができない人は、「正しく」ないのだ。
そして「死」も権力外になり、サービスとして消費されていく

 わたしたちは、M.フーコのいう「施設」でも、ドゥルーズのいう「高速道路」でもなく、見事に「透明な箱」に閉じ込められ管理され(あっ)ているのかもしれない。
(参考:「コモン/ウイルス」水嶋一憲 『現代思想 vol.48-7 2020年5月号所収)

4.私たちはまきこまれてはいけない

 こうして私たちは「分断」させられいるわけだ。そしてさらにその「分断」の大波に洗われて、いろいろなことを見えなくさせられ(ようと)ている。

 次の図をみてほしい。これは岐阜大学の下畑享良さんがfacebookで紹介していた図である。

 これは新型コロナ感染拡大の第二波の話ではなく、経済の話だけではない。
 日本ではあまり議論されていないHealth分野の第2波、第3波、第4波の警告である。(図1:@VectorStingのtwitterより)(引用もとを探したけど見つけられず)

「感染拡大の第2,第3波が心配されていますが,別の意味の「パンデミックの第1~4波」も提唱されています
これはパンデミック後に経時的にもたらされる変化を指し,
第1波はCOVID-19の罹患と死による大きなインパクト,
第2波は医療資源不足によるCOVID-19以外の疾患患者へのインパクト,
第3波は慢性疾患患者に対するケアの中断によるインパクト,
そして第4波は精神的ダメージ,心的外傷後ストレス障害,バーンアウトといった時間とともに重くなるものです.静かに進行する第3,第4波への対策が求められています.」

 第4波は、すでに日本でも進行している。
 緊急事態宣言の議論の中で、「感染防止」か「経済」という二つの天秤議論になってしまい。経済の話ばかりになっている昨今。バーンアウトや精神疾患の悪化、日常生活の変化についていけない方たちの精神疾患の発症、そして、自殺といった「Health」の課題が静かに進行している。自殺者増はすぐには増えない現在はハネムーン期。すでに分水嶺は近づきつつある。

日本ではあまり大きく取り上げられていないが、すでに3月の時点でこころのケアについての発信は行われている。

ブリーフィング・ノート「新型コロナウイルス流行時のこころのケア」

ブリーフィング・ノート「新型コロナウイルス流行時のこころのケア」日本語訳
福島県立医科大学ページに
「新型コロナウイルス感染症(COVID19)が世界的な猛威を振るい、日本のみならず世界の人々の不安が増大しています。このような不安に対し、適切な対応を行うためのブリーフィング・ノート(覚書)として「新型コロナウイルス流行時のこころのケア」がIASCから公表されました。IASCは災害や紛争など緊急時時に人道支援や精神保健・心理社会的支援などに関与する複数の国連機関の間で連携、調整を行う常設の委員会です。」

 一部でこういった「こころのケア」についての発信があるものの、「不安定さ」は感染者の減少と反比例して増している。

 今現在も行われている国立成育医療研究センターによる
「コロナ×こどもアンケート」 の中間報告。

こどものこころへの影響は?
 第1位「コロナのことを考えるとイヤだ」(39%)
 第2位「さいきん集中できない」(35%)
 第3位「すぐにイライラしてしまう」(32%)

おとなも
・大人のストレスも問題
 保護者の方ご自身のストレス解消があまりできていないと回答された方が62%いました。

 こどもたちの「こころ」、そしてまわりの大人、静かに進行しているわたしたちの「こころの破壊」。それは専門家をのみ頼ることで解決できるのではなく、基本は「安全安心な生活」と「インフォーマルな社会的集団のむすびつきと活性化」が基礎にある。まさに、その部分をこのウィルスの攻撃にさらされている今、なおさら私たちは【差別による分断化】にまきこまれてはいけない。

5.変わるべきは何?変わらぬべきは何?

 先に触れたように、COVID-19で重症化するハイリスク群とよばれる層の人たちに対して、日本は「要塞化」することによってその方々を「護った」という論調がある。
 一方で、「施設」という閉じ込められた環境は、そこにウィルスが入り込んだとき容易に集団感染が起こることを示す。それは日本ではじめて大規模感染をみたダイアモンドプリンス号の話をみなくても、世界各地でおこっているクラスターをみるとわかる。

The COVID-19 Pandemic Makes it Clear: It’s Time to Permanently Close Institutions
Thursday, May 7, 2020 ByReid Knight

 仮訳「ADA法ができて30年たっても、障害のある方が地域で暮らすことが保障されておらず、感染し死の危険にさらされる閉鎖された施設に障害者は閉じ込められている。そしてそれを無視して、 COVID-19を人々を強制的に施設に戻す口実として使用しようとしている。そうでははなく、障害があるすべての人々がコミュニティに住むのを助ける時です。小規模分散化した暮らしこそ、実は感染リスクが低いことを私たちはかんがえなければならないのです。」

 大きな集団生活の施設を「要塞化」するよりも分散した小規模な暮らしの方が明らかに集団感染リスクは低い。もちろん、そのときに支援が必要な人たちに、どう継続して生活のサポートを保証するのか?という議論が同時になされなければならない。

新しい生活様式は ICFの思想とユニバーサルデザインから  

国から盛んに、「新しい生活様式」が示されているが、「個人の行動様式の変容」にだけ着目することに、私はとても違和感を感じる。さらにまた行動経済学のナッジ理論によって(のみ)行動変容をうながすることの限界値は低いと私は思う。
そうではなく「withコロナ」は、まず、「環境を変える」、「環境を整える」が第1だ。

 密をふせぐのであれば、そもそも都市は密。密の解消をどのように行うのか。効率化を捨てなければ、密は解消されない。日本の都市の公園の面積の少なさは世界の都市でも有数だ。どんどんどんどん、密になっている。
さらにそれは物理的な効率化だけではなく、時間の効率化も必要なのだ。

 具体的な一例をあげよう。「コンビニ」を考えて欲しい。
狭いコンビニの通路。ところ狭しと置かれた商品と棚。
 それをユニバーサルデザインをもとに設計をしなおしてコンビニをつくってみればどうだろう。
 買い物は計画的に→ならば、わかりやすい陳列棚、わかりやすい商品配列が買い物客の買い物時間を減らすことができる。
それがまさにユニバーサルデザインではないか、と思うのだ。
ユニバーサルデザインに基づいた社会構築。それが「感染症のある社会」に近づいていく。

 「with コロナ もどってほしくないこと
 今回のウィルス対策を日本が行っている中でみえてきたこと
 まず、第1に、わかってはいたけれど、極めて深いアナログ化社会であること。
民間のデータサイエンティストが見た「驚きの内幕」、厚労省のコロナ分析

 揶揄された保健所のFAXによる感染者入力はその典型的な例だろうし、特別給付金の10万の事務作業にしても結局はアナログ対応しかない。
 行政の職員が仕事でオンラインミーティングすらできない自治体の多さに頭が痛い。そもそも「デジタル文化」がない。そのことが今回のコロナ禍で本当によくわかりました。もどって欲しくない。デジタル化をすすめてほしい。
 その2。徹底したアナログ社会、これはおそらく日本の自治体という仕組み、その構成の問題にも関係するのだろう。
 都道府県とは何だ?
 いろいろな分野から withコロナ時代、都道府県は必要か?という議論が出てくるでしょう。個人的には「都道府県は」全く機能しなかった前時代的な仕組みになりさがってしまったように思う。知事のTV発信の競争の場ではないのだ。すでに出ていた「都道府県とは?」という課題がこれも大きく露呈した。

 その3。アナログの話と同じ分野にもきこえるかもしれないが、この国の一次データーのとりあつかいと公開についてはあきれるというよりイラつく。5月になってようやくNTTとSBの系列の会社が人の集積データーの公開をだすようになったが、どのデーターも一次資料がきちんとした形ででてこず、公開されず。そもそも一次データーを尊重する文化がないこともわかった。
 何しろ、COVID19で亡くなった方の数字すら、信用できない数字である。もちろん現象解釈なので、臨床場面での判断は尊重されるべきは間違いない。しかし、アウトプットやアウトカム側からの圧力で数字がかわってしまう(事実か否かは別として)とそれは科学とは呼べない。
 そんなことが平然と行われ、印象操作が「調査」と「調査報告」でおこなわれていることは、一度しっかり立ち止まって正すべきことである。

 かわってほしいことでいえば、福祉や介護の現場でもたくさんあったのでは?と思う。
 COVID19対策の中で、デイサービスやショートステイが矢面にたたされ休業、ということがクローズアップされた。しかし、その実、ケアマネや相談支援の必要性、意味を問われた気がする。
 地域の中で、「ほんとうに必要なサービスは何か?」、議論の基盤にして前提にしていた社会状況を、withコロナで見直したときに、介護保険制度も障害者総合支援法も、(「密接しなければならない」ということではなく、)そもそもそれぞれのサービスに必要性があるのか?
 そのことを私たちは投げかけられているように思う。
 会社がはんこのために出社されるという同じ文脈で、福祉や介護は極めてはんこ文化です。正直ばからしいですね。ものすごくたくさんの無駄が介護、福祉にはありすぎる。

終わりに

 私たちはこれまでもたとえば、こどもの教育をかたったりするときに、ノスタルジックに
「商品が自分たちにどうやって届くのかを学ばなければならない」
「自分達の口に入るモノがどうやったできているのかを学ばなければならない」
といってきました。
 今回、都市部で生活、活動をしていてわかったことは、どこまでも脆弱な市場流通システムです。
 自分たちはサバイブできても、障害の重い方はサバイブできないとなったときに、食べるものも含めて、生活を委ねているシステムの弱さをやはり私たちは私たちらしく顔の見える関係性を構築することで、課題にむかっていきたいとかんがえるのです。
 マクロな仕組みでボトルネックを解消するアプローチももちろん必要です。東京や大阪などの都市はそもそもが感染症に弱すぎます。それを解消することを「地方へのながれ オンラインで仕事ができるなら、地方へ」といわれるでしょう
 しかし、個別に移住する人は増えても、おそらく大きくかわらなければ、システマチックには動かないでしょう。それは先にふれた「都道府県」や「自治体の疲弊」もあります。いちばん、簡単にビックウェイブを起こす政策的方法は、全国一律の最低賃金保障制度をやれば、インパクトは起きるでしょうね。東京の最低賃金を46都道府県どこでも保障される。あとは、モビリティ(移動保障や物流保障)も大きな課題になるでしょう。はじめにふれたThere will be no 'back to normal' を日本でも、具体的に語っていきたいと思うのです。

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