「地域」を知るということ

 今日はいまから奈良県宇陀市に向かう。今年に入って毎月1度通っている。今日は特別なプログラムで私が、宇陀市で働く人や地域おこし協力隊の関係の人や企業の方に宇陀を紹介する。
 「あれ?」逆じゃないんですかと思われるかもしれない。そう本来であれば、すでにかかわって何年、住んで何年の方が私に地域を紹介してくださるとよいと思う。
 大学時代に地域社会学を学び、過疎地のフィールドワークを何カ所かさせていただくなかで、地域の人たちの暮らしをきくことを経験させていただいた。それこそ、夜が明けるまで飲みあかし、その最後に自分がききたい話をきけるようになるという経験もした。
 そうして興味をもって土地の文化を知るようになり、それにまつわるいろいろなことを勉強するようになると、興味をもって訪れると自分の独特の見方というのができるようになってきた。
 いまはインターネットが発達していろいろな資料をみることができるようになるとさらに学びは進む。
 実は観光で売っている土地はけっこうやっかいだ。史実をねじまげるようなことや推測で物語をつくっていることも少なくない。
 そうではない地域の暮らしを想像できることが楽しい。ほんとうは、これにその地で暮らしているお年寄りの話をきくともっと充実した暮らしが見えて地域がよりみえてくる。
 移住の話はともかく、協力隊や最近よくきくワーケーションの話をきくと80年代から90年代の別荘の話を思い出す。別に暮らす場所は自由だ。かかわり方も自由だ。でも、地域の歴史や暮らしをリスペクトする姿勢だけは少しでももってほしいと思う。それを村の「ウチ」の文化だと切り捨てないでほしいと思う。日本のほとんどの地域は「ウチ」の文化をそれほど古くからもっていない。もちろん、入会や水利といった利権が絡む話は別だし、特定に地域で特権的に何かを与えられていた地域は違うが。それこそ「ウチ」意識は京の洛内の方がきつかったりする。
 私がほとんど学習としての歴史で習わない近代に「地域」は激変している。ほぼ日本中が。つまりこの150年くらいのこと3世代から4世代にすぎない。それを歴史としてきかされているのだ。
 そこを越えて、地理をみたり家をみたり、語られる歴史をきくことで、明治時代にその地がどれほどかわったのか、がわかる。そして、それ以前の少しの歴史が残っているのかが垣間見えるのだ。
 地域をしる。そんな視点をもって、いろいろな地域を見てみることが楽しい。


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