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【名言愚行】(解説)「自分で考える」ことへの批判

この記事は、「とつげき東北」が、かつてweb上に公開していた『名言と愚行に関するウィキ』を復刻するマガジンの一部です。

ちまたで「なんとなく正しい」とされているけれど、実際には全然正しくないような言葉を辞書風に取り上げたり、時には解説記事をつけたりするものです。

詳しくはこちら。

社会に出て通用しない

「社会に出た経験」についての語りは、多くの社会人にとっては優秀な学生との議論の際に負けないための唯一の武器である。それはちょうどいい歳をした大人が「あんたも歳を取ればわかる」と念仏のように繰り返さざるを得ないことと似ている。

 筆者は学生の頃、インターネット上で「議論ごっこ」をするのが好きだったが、頻繁に「社会に出たら通用しない」といわれてきたものである。そればかりではない。筆者が「社会に出て」実際に「通用している」段階になった後でさえも、筆者のことを学生だと思い込んでいる人は筆者を「社会で通用しない」と言ったのだった。
 彼らの言う「社会」なるものが何を示すのか、どこにそのようなものが存在するのかは全く謎である。少なくとも出版の世界や国家公務員の世界、エンジニアの世界とは別の世界らしかった。彼らの主張が正しいとすれば、世の中には社会に通用しない社会人がごまんといることになろう。そもそも、「社会に出て通用しない人間」など実際にはほとんど存在しないという事実を忘れているのである。「社会では通用しない」といった妄言は、社会一般では通用するかもしれないが、知的世界では通用しない。

 しかし問題はそこではない。実際に社会に出て本を執筆したり公務員として生活することになる学生に対して「社会で通用しない」と堂々と宣言してしまえるのはなぜか、ということである。
・結果がすぐに明らかにならないものに対しては雄弁に語ることができる心理
・自分の気に食わない対象を無根拠に貶めたくなる動機
・存在するかどうか疑わしい「社会」と呼ばれる彼らの「理想世界」への信仰
 これらについて考慮されねばならない。

 ちなみに、かの天才物理学者アインシュタインは、子供の頃から成績は優秀だったが、周囲の人間にたいへん嫌われていたそうである。ギムナジウムの教師は彼をしてこう嫌悪した。「どんな職業についても、どんなに努力しても決して大成しない」と。(注記:この逸話は本稿作成当時の記憶に拠るもので、ファクトチェックが入っていない)

社会人としての常識

 ごく基本的なことを除いて、当該語で表される何かが、所属する企業・部署等に応じて千差万別であるにもかかわらず、大上段に「根拠」として使われる名言。単純に教育の効率化を目的として利用する場合は名言的用法ではないが、しばしば、自らのいびつな考えを押し付けるために悪用される。

 例えば、googleなど先進的な企業等では、スーツ等を着用する義務がない部署が存在する。他方で、「身だしなみは社会人として常識」という根拠をもって、少し派手なスーツ等を批判する上司等が世の中に存在することは想像に難くない。とすれば、Googleは、「社会人としての常識」が欠落した者どもの寄せ集め集団なのだろうか。むろん違う。確かにボロボロのシャツで出社することは、少なくない企業ではまかり通らないだろうが、そうでもない企業文化もある(この程度の理解は社会人として常識だろう)。本来、明確に注意したければ、社内規定を出せば充分のはずだ。
 別の例。出版業界には極めていい加減な風習が残っており、書籍や記事の執筆依頼の際に、印税率や原稿料の取り決めを行わなかったり、契約書を交わさないことも多い。ただ、それがいくら「社会人としての常識」と異なっているとしても、特段不都合がなければそれで良いであろう。

 筆者は複数の職業を多数の部署でこなしてきたが、仕事の作法を含む文化あるいは「常識」は各々でまるで異なり、転職・異動直後には必ず「そこにおける『常識』」を1つずつ確認するということに慣れた。ある部署では、どんなつまらぬことでも上司に常時報告することが「社会人としての常識」とされていたし、別の部署では、大抵のことは係員が独自の判断で進め、上司の手を煩わせないことが「社会人としての常識」となっていた。
「社会人としての常識」という、原理的には何事をも表し得る概念の集合が、自分の所属した部署においては具体的にいかなるものとして実体化されているかを異動直後から可及的速やかに確認することは、仕事をスムーズに進める上で効果的である。

 さて、筆者の身近な体験で言えば、「社会人としての常識」を細かく掲げる部署ほど、また、ペーペーの職員が多い部署ほど、仕事がなまぬるい傾向が強いように思われる。これが事実であるとすれば、次のような背景からであろう。
 新人の多くは社会人経験が浅いため、基本的な挨拶や敬語が使えない、上司への報告や連絡ができない、独断で物事を判断してしまう、といった場合が多く、それらを注意するために「Xすることは社会人としての常識」という教え方は好都合なのだ。「君たちは未だ知らないが、常識であるもの」を仮定すれば、反論の余地を与えず、楽に相手を説得できる。新人が多い部署に、重要な業務が生ずるようなことは少なく、従って多忙になりにくい。多忙ではない部署においては、(上司もヒマを持て余しており)極めてどうでもよいことを「改善」してゆくこと程度が求められがちなのである。

 私が就職して3年目の頃、「社会人としての常識」をやたら繰り返す部署にいたが、「電話はワンコールで取る」という、かなり一般的・基本的なルールが、当該部署においてまったく浸透しておらず、他人の電話のコールを完全に放置していたのには唖然とした。ふと、心の中で「社会人としての常識が欠落した部署だ……」と唸ったものだ。

 ところで、筆者が好んで視聴しているゲーム実況において、RPGで出てきたモンスターが「とつぜんおそいかかってきた」際、実況主が「初めて会った相手に挨拶もないって……社会人として常識でしょ……?」の旨突っ込んでいたのが印象的であった。
 名言とは、かくのごとく相対化して用いられるべき何物かであり、それは極めて健康的である。

(解説)「自分で考える」ことへの批判

「自分で考える」「自分自身で判断する」ことが重要であるなどと、いったい誰が言い出したのでしょうか。今日では、この自由主義的な呪いの言葉が、およそ「正しい判断」と呼ぶべきものから、人々をできるだけ遠ざけるよう機能しているように思えてなりません。これらの言葉は、誰もがしかるべき思考・判断の手続きによって、あたかも正解に向かうことが可能であるかのような錯覚を与えている。明らかに不適切な妄言です。
 多くの人は、悩んで自分で考えている時ほど、良い判断を下せないということを忘れてはいけません。もっとも優秀な判断をできる人は、常に問題が提示された瞬間、考えるまでもなく反射的に正解を導くのです。ああでもないこうでもないと考えを巡らし始めていることが既に、暗闇に向かって立ちすくんでいることを意味しているわけです――もちろん、幸運にもゴールに到達できる場合があることを否定するわけではありませんが。

 思い出してみればよろしいでしょう。私もそうですが、高度な数学の問題や外交的問題について、どうすれば良いか問われたとしましょう。自分で考えてわ かるでしょうか? 自分自身で判断できますか? 一般にはできるはずもない(あなたができるなら失礼)。通例ですとせいぜい、教官や、下手するとマスメディアがもっともらしく語っていたことを、そうと気付かれないよう脆弱に反復することができるに過ぎないのです。
 最初からそのような虚飾をやめて、信頼できる何かを探すほうが賢明です。数学の問題が出たら教授に聞きに行く。外交の問題が出たら真の専門家(表も裏も良く知っている元外交官など)の情報を得る。自分で考えたり判断したりするよりも、100倍もまともな答えが出るに違いありません。
 唯一許されるかに見えるのは、自分自身が本当に力を注いで取り組み結果を残した対象について、自分が知っている2,3の事情をそれとなく語ることだけです。

 もちろん、自分で考えることが必ず悪いとは言わない。ことによると、大発見ができるかもしれないですし、まあそういった特権的な夢物語はともかくとしても、「自分の判断だから、失敗しても納得できる」といういささか冷静さを欠いた退屈な安心感のために「考えたそぶり」をすることが愚劣とまでは言いません。
 ところが実際に振り返ってみると、運不運程度ではとても解決できない高度な問題については、俗な人間が「自分で考えて」うまくいったためしなどない。
 人間の認識や思考には、心理学的にあるいは認知科学的にしかるべき錯誤があるので、皆が自分で考えることによって同じ間違いをしでかす可能性があるわけです。具体的なアドバイスとして、私たちは、自分にとって心地よい結論ほど疑ってかからねばならないのです。なぜなら、心地よい結論は私たちに「正しい」と信じ込まれたがる傾向を持つからです。

「思想」的な側面においてはとりわけそれがひどい。数学や政治学と違って、学ぶ機会が少ないからでしょう。
 なぜ「自分で考える」などという非常に下らないことがそもそも必要なのか、「自分で考える」ことがいかに見苦しい結果をもたらすかを疑うことさえできない程度に、思考停止が行われつつあるのが現状です。
 その結果、メディアなどに用意されたできあいの「自分で考えた末に行き着くべき結論」の数々を自虐的な形で先取りして享受せざるを得ないのです。
 情報社会だと言っても、これでは昔と何一つかわりません。かつては権威的な何か、例えば身近には父親ですとか、もう少し高級になると哲学ですとか、そうしたものが思想のために既に用意されていて、それに従うことがいわば「正しい」とされていた。もちろんそれらは正しいとは限らなかったけれども、今はそれがより楽な、消費されがちな、単調なものに変化しただけに過ぎません。それを自分で考えたと過信するから、いかがわしい事態がもたらされるのです。
 何の知識も努力も必要とせずに、なぜかいつのまにか誰にでもある当然の権利として習得されたことになっている「個人の判断力」などに任せていたならば、しょせん、周囲に迎合して自分に都合の良い風潮を「自分自身で正しいと判断」してしまうのが落ちに決まっているわけです。そうして自分で考えて、どれだけ多くの人が宗教やら素朴なヒューマニズムやら、それに類する恐ろしくずさんな「思想」の虜になってしまっているかを見てください。アメリカのイラク侵略戦争について「愛・平和」とだけしかスローガンを掲げられないおかしな連中の一連の動きを想像してください。

 ますます知識が細分化され高度化されつつある情報社会において、全ての 物事にいちいち自分が取り組んで考えようなどと思わないことです。まず最初にいったん、自分で考えるという愚鈍な行為を止めなければならない。それぞれの方面にしかるべき専門家や先行者がいるから、まずはその情報を集めることです。ゆっくりとした時間の中で知識を蓄え習得し、その各々の差異や違和感に敏感になることです。
 それでも敢えて自分の考えを持つという蛮勇をふるいたいのなら、最低限、自分の思想は文章にしなければならないでしょう。文章にできない思想など、ないも同然です。文章にしてみて数行で終わる程度ならとても恥ずかしくて思想などといえないでしょうし、コトバが浮かばないなら概念がきちんと整理されていないわけです。
 自分自身の考えや判断、ということを口にするのであれば、それが形に残っていて、なおかつ他者に向けて開示されていなければならない。他者の前にさらけだされる瞬間の、その他者の視線を意識することで、初めて思いが思想となり得るわけです。もちろん批判されることもあり、往々にして、全てが終了した後で自分の浅薄さに気づかされる事態に陥るでしょう。その過程で、思いの連鎖が言葉として形作られ、整形され、変化し、ようやくおぼろげに思想の輪郭が形成されてゆくわけです。
 こうした一連のやりとりを繰り返すことなく、ぽっと出た「考え」だか「思想」とやらを大事に持って生きるなどという野蛮な振舞いを、一体どうしてできるのでしょうか。

 私の母親は、50にもなって、ラジオのパーソナリティーか何かの「どんなことがあっても人を試したりしてはいけない」という言葉を聞いて、「なる ほどなぁと思ったわ」などと中学生の私に漏らし、私をひどく失望させました。そのような言葉の真偽については(それがどちらであるにしても)、その歳になったころには、既に幾度となく想定され、そのたびごとになにがしかの知に基づいて判断され、「既に選択されたもの」になっていければならなかったはずな のです。どれだけ永い間、精神が粗野なまま野放しにされ続けていたかを、中学の子供に薄々でも感づかせてしまうような惨めさを私たちは持っていてはいけな いのです。
 今お話ししたのはやや極端な例ですが、「考える」作業というのは、それなりの作法で身につけていかなければ絶対にできない。5年間真面目に考え続けて生きてきた人と、40年間とりたてて何もせず生きてきた人との間に、恐るべき差が生じることは、「才能」などという意図の見え透いた前提を置くことなしに、自明でありましょう。

 どうかあなたがたが、他人の高度な判断に対して「自分で判断する」などという滑稽な言説を振りかざして、事態を隠蔽してしまわないよう、自由主義的蒙昧とでも呼ぶべき言い逃れに騙されてしまわないよう、そして他者との齟齬のうちに真の「考え」を磨いてゆくよう、願わずにはいられません。


(※注記:『名言と愚行に関するウィキ』復刻版マガジンは、無料記事を多く含む予定です。モチベーション維持のため、応援、ご支援をいただけると大変うれしく思います。)

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