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【名言愚行】(解説記事)とある偏執的な親の場合

この記事は、「とつげき東北」が、かつてweb上に公開していた『名言と愚行に関するウィキ』を復刻するマガジンの一部です。

ちまたで「それなりに正しい」と思われているのに、実際には全然正しくない言葉を辞典風に取り上げたり、時には一般的な解説記事をつけたりするものです。

詳しくはこちら。

人の気持ちを考える能力

 能力や地位の高さを、ほとんど無条件に道徳性の低さに置き換えるための「論理」は多い。
「勉強ばかりしていては、人の気持ちがわからなくなる」とか、「お偉いさんには、庶民の感覚が理解できない」「弱きを助け強きをくじく」といったものがそうだ。

 だがそればかりではおさまりがつかないのだろう。そうした語の使用者は次に、「道徳性の低さ」を「能力の低さ」に不適切につなげることで、相手の能力の高さそのものを「なかったことに」する。その結果彼らは、自分よりも能力が高い人間を、自分以下の能力しか持たず、しかも自分より道徳性の劣った人間であるとして見下すことができるのだ(これが道徳の「信じる側」の目的である)。

 この言葉もその典型である。人の気持ちを考えない行動をするのは、人の気持ちを考える能力が足りないことや、人と上手にやるスキルが不足していることを意味している、というわけだ。
 ところが実情は必ずしもそうではない。人の気持ちを考えた上で、相手がもっとも嫌がるように行為する賢い人も当然いるだろう。筆者とて、好きな女性には 相手が喜ぶことをしてあげるが、どうでもよい相手には普通に接するし、自分が嫌いな鬱陶しい男には冷酷に振舞う。「人の気持ちを考えない行動」は、当該行 動の行為者の「思いやる能力」が低いことを一意に意味しない。単に、自分が嫌われているだけである可能性を考えるべきである。

 狡猾に悪意を突きつけてくる相手に対処するには、攻撃を受けないように反撃の姿勢を見せるべきなのか、攻撃が効いていないように見せて諦めさせる べきなのか、周囲に相手の悪意を見せ付けて孤立させるべきなのか、という判断が必要になる。そうした場合こそ、単に「あの人は―ことができないんだワッ」 などと喚くのではなく、「相手の気持ちを考える」べきなのである。

 道徳性の低さを能力の低さに変換するおぞましい論理には、他に、「能ある鷹は爪を隠す」や「本当に頭の良い人はわかりやすく書く(わかりやすく書かない人は、頭が良くない)」「本当にできる人は自慢しない」といったものがある。
「能力が高い→能力が低い」という連結は困難だが、間に道徳的評価を挟むこと(「能力が高い→道徳性が低い→能力が低い」)によって、人々はこうした神話をいともたやすく受け容れる。

みんながそんな考えを持ったら

 気に入らない考え方を提示された際に、一足先に「世の中の全員がその考え方を持った場合」に夢を馳せ、その結果の「不都合さ」をもって、考え方の理屈が間違いであるとみなす、下級の論法。

 例えば、「仕事は面倒くさいし、できれば働きたくない」と思ったとしよう。その「思い」自体は嘘でもなんでもないだろう。「宝くじが当たればいいな、しんどい仕事をせずに済むのに」も同様である。「多くの人が、宝くじが当たれば、しんどい仕事をせずに済むから、いいと思っている」という命題もまた、常識的に考えて、おおむね正しいと言ってよいだろう。
 では、世の中の多くの人が給料の大半を宝くじにつぎ込むような世界がきたらどうだろう。もちろん社会は悪化してしまう。では、そのことをもって、「多くの人が、宝くじが当たれば、しんどい仕事をせずに済むから、いいと思っている」が間違っていると言えるだろうか。「宝くじが当たればいいな、しんどい仕事をせずに済むのに」という判断が不適切だと言えるだろうか。そんな考えを持つことは批判されるべきだろうか。そんなことはない。自明である。
「私は吉野家より松屋が好きだ」という思想さえ、「世の中の全員が持ったら」吉野家はつぶれてしまうではないか。

 ところが、上述のとんでもない論法が平然と使われる場合がある。
「ニートって楽でいいなぁ」「金持ちのニートはすばらしい」と言えば、猛反発する。「全員がニートになったら、食料さえ満足に供給されず、自足自給の生活になる」「経済が破綻する」などと大真面目に語るのである。そんな状況になりはしないし、ならない限りにおいて、ニートのすばらしさは損なわれることがない。
 そのことを説明した上で、あらためてなぜ彼らがニートを嫌うのかの根拠を問うと、「ニートは他人に迷惑をかけている」「社会に負の影響を与える」といった主張がされることが多い。
 これに対しては、「他人に迷惑をかけながら甘い汁を吸って生きることは楽でよい」「社会に負の影響を与えても自分が得する方を望むのは人間として自然な欲求である」という、しごく当然の正しい主張を対置できるはずだ。だがそうすると、彼らは彼らの粗末な教義に原点回帰する。すなわち、「みんながそんな考えを持ったら世界はどうなる!?」などとなる。
 彼らにおかれては、「宝くじが当たればいいな、しんどい仕事をせずに済むのに」という主張を論破でき、宝くじにやや多くのお金をつぎ込む個人の自由を制限する権利を持っているらしい。

 仮に「みんなが持つ」と世界が滅茶苦茶になってしまう思想であっても、1人または数名が持っていること自体は何ら世界を滅茶苦茶にしないし、いずれにせよ思想の正誤とは関係ない。極度の愚図でもない限り、ある正しい思想を持っていても、現実の状況を判断して適切に行動するのが当然である(宝くじに全財産をつぎ込まないし、突然会社をやめてニートにならないし、「東大に行きたい」とみんなが思っても、決して東大以外の大学の志願者はゼロにならない)。

 彼らは、永久に実現されるはずもない世界を不気味な悪意をもって先取りした上で、お得意の利便性と真理性の恣意的混同によって、相手の主張を無効にしたかのような錯覚を持つ。
 みんなが持ったら自分が困るからお前も持つな、といったいびつな平等主義精神は、凡庸かつわがままな道徳主義に基づくものである。もとより彼らがそうした奇妙な理想主義に精神汚染されているからこそ、彼らは楽して生きるニートを素直に「すばらしい存在」であると認めたがらず、「うらやましい、ねたましい、ずるい」といった反感を隠しながら「義憤」の念を表したに過ぎないのに。みんなが真面目に生きる中で自分や一部の特権的な人間だけがニートになって甘い汁が吸えるなら、それが快楽主義的にもっとも賢明に決まっているではないか。

 この名言の発話には、あらゆる種類の愚昧さ、思想的未熟さ、自分勝手さ、知的怠慢、道徳信仰等が、いっぱいいっぱいつまっている。
「ニート差別」にはいくつかの段階があるが、多くは「ニートって楽でいいな」「うらやましいな。すばらしいな」という(明らかに自然な)思い自体を(道徳的に)否定しようとするものである。いわば、「宝くじが当たったらいいな」という(当然の)思いをも(倫理的に)論破できるかのごとく勘違いしている段階である。ここまで思想的病状が進行している場合、取り返しがつかない。もし世の中のみんなが、このような低劣な理解力・考察力・政治的判断力しか持たない不勉強な者ばかりになったら、世の中は無茶苦茶になるだろう。彼らは「ニートと同様」迷惑であり、社会に負の影響を与えかねないという評価基準からすると、「生きる価値が低い」のである。

 輪をかけて醜いのは、例えば「ニート議論」に際して、「じゃあお前がニートになれば?」などと言い始める連中である。
 真面目な会話の中で、この種のずさんな「考え」を(上述の名言的用法で)うっかり垂れ流してしまう類型の人物は、思想的な意味において一瞬で軽蔑されるべきだ。当該人物の判断には二度と信頼をおいてはならない。人間として最低限の努力さえしていれば、どこをどう間違えても、これほどまで尋常でなく深刻な思想的障害を抱えた頭の悪い存在にならずに済んだはずなのだから。

 余談だが、麻雀においてもやはり、この構造を持った陳腐な思想がある。
 理論的な麻雀戦術に対して、「もしみんなが理論に基づいた麻雀を打つようになったら、麻雀は運だけのゲームになってつまらない」「もし全員が同じ打ち方をするようになったら、手がばればれになって簡単に勝てるようになる」といった批判がある。
 仮に麻雀において「最強の打ち方」が理論的に導かれたとしても、こうした妄言を放つ者たちには、当該打ち方を身に着けることができそうにないので、これは全くの杞憂である。
 実際、完全に解法が判明しているはずの大学入試数学において、みんなが同じような解を導くだろうか? 違う。導けない者たちがいて、そうした者たちは人生の色々な問題に対して、こぞって「答えが一つだとつまらない」などと言うのである。


(解説記事)とある偏執的な親の場合

 社会的な不満や不安のはけ口がなくなった際には、往々にしてスケープゴートに仕立て上げられ、堕落が指摘され改革が求められてしまいがちな「教育」が、今日直面している厄介な問題について大上段から語るつもりはないのだが、あからさまに失敗に終わった私的教育というものが存在し、その結果がほとんど必然的に迎えられたとあれば、私がそれについて2、3語ることはできよう。

 とある専業主婦の、名言好きな母親がいて、息子に名言教育を施すとしよう。色々なことに挑戦しなさい、たくさんの経験を積むことが大事、といったことを繰り返す母親はといえば、なるほど滑稽なまでの唐突さで「お琴」を始めたり、あるいはパッチワークに手をだしたり、健康食品を大量に買い込んだりすることになる。一方の息子は興味の対象が狭いタイプで、ファミコンゲームに熱中してはそればかりに時間を割こうとする。とはいっても、必ずしも特定のゲームをしているかと言えばそうではなく、さまざまなゲームに挑戦し、色々なゲーム経験を積んでいると言えなくもないのだが、しかしそうした理屈とは無関係な態度で、この息子から、名言を武器にファミコンを奪い去ることはいとも簡単である。「ファミコンばかり」やっていては新しい挑戦ができず、たくさんの経験が積めない、という主張はなるほどファミコンゲームの奥ゆかしさを知らないか、知ることのできない者にとっては「当然の」理屈となる。
 ファミコンを一切禁じられた息子はしぶしぶ小説やマンガに手を出すだろう。もとより、母親が用意した「少年サッカーチームへの参加」だとか、「スイミングスクール」、あるいは「ピアノ教室」などといったものは、どれ一つとして少年の心をつかむことがなかったのだから。
 新しく開始される小説やマンガへの興味はどのように処理されるか。端的には、雑誌から毎月切り取って保管していた連載小説と、100巻まで集めた漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が、ある日突然、少年の本棚から消滅し処分されているという悲劇的な結末によって、唐突に幕を閉じることになる。熱中しすぎ、偏りすぎはよくない、という名言が念のために添えられた。その後少年がノートに数年かけてしたためた、子供らしい稚拙な「自作小説」の数々も、同じ運命を辿ることになる。

 では少年は何か新しいことに挑戦できるだろうか。残念ながら、小遣いが少なく、お年玉の大半も「あんたのためにとっておく」という名言と共に奪われ、永久に自由に使うことが許されないだろう少年に、何か特別なことができるわけではない。父親が所有していたパソコンに興味を持ち、お金を貯めてプログラミングの本を購入してプログラムを始め、かなり高度な知識を身につけつつあった中学生は、やはり「一つのことに没頭してたらダメになる」「広い視点を持て」という理由で、半永久的にパソコンに触れることを禁止されるわけだ。
 少年に許された「挑戦」「いろいろなこと」とは、例えば父親と行う退屈なテニスの真似事であったり、マラソンであったりといった、非常に狭い範囲のものにあらかじめ方向付けられており、母親が理解できない高度なものであってはならず、したがって母親が発する「選択を与える」かに見せる名言の恣意的な組み合わせは、結局のところ母親の選択を強要するためにしか機能できなかったのである。事実、将来講談社現代新書から著書を出版することになるその少年が、出版について両親に報告する段になったとしても、両親は喜ぶどころか、真っ先にそれに反対することになるだろう。

 気に入った名言を適宜選んできて、気が向いた対象にだけ適用することによる「真理の強要」ぶりは、それを受け取る側にしてみればとてつもない暴力性として立ち現れる。語ることが許される者、関係性において強い者だけが名言を放つことができるために、主張を無前提的に援用する名言は、権力の手段として機能せざるを得ない。そうでなければ、「お父さんは頑張っている、みんながんばっている」という名言で、週に7つもある習い事の合間の休みの日に、小学生に延々と草むしりなどさせたりはしまいし、そのような全体をも「これもあんたのため」という言葉で装飾することはなかろう。「みんながんばっているからといって、なぜボクまでもががんばる必要があるのか。がんばりたい人が勝手にがんばれば良いではないか」という、恐ろしいほど的確で真理をついた命題の出番が、そこには用意されていないのである。
 こうした現実を前にすれば、暇をもてあまし、お琴やパッチワークどころか、麻雀だのお茶会だのをしながら「お母さんはいろいろなことに挑戦している」と得意げに主張してくる「がんばっていない者」が、そういった作業をやれば良いのではないか、と子供心に反発するのも自然の道理である。
 そうはいっても、母親の卑しい暴力性に対して、子供が即座に反旗を翻し、それだけを理由に「ぐれる」とは限るまい。ある「論理的な思考をする」子供が、「矛盾」を感じるほどのことは、まだいささかも生じてはいまい。

 名言の暴力性が、一種のダブルバインド状況とともに、もっとも顕在化される瞬間は、道徳性も人間性も高くない者によって、それらが語られるときである。他人の心を思いやれ、優しさが大切だ、としきりに促すその母親が、例えば自分が楽しめないゲームや遊びを子供が楽しんでいるというだけで妬み、即座に禁止に向かうといった例を挙げるまでもなく、彼女が日常の数々の場面において醜く自分勝手な作法で子供から搾取を繰り返していたことはいまさら説明するまでもなかろうが、それがもっとも際立ったのは子供が大学に進学するときであっただろう。
 仕送りの送金手段を考えていた折、郵便貯金を使えば、通帳とカードを別々に所有して遠隔地に無料で送金できる、ということを知ったのだが、あいにく既に口座を持っていたため、送金専用の口座を作る必要に迫られた。郵便局の職員に聞くと、「ボランティア貯金」という別の口座を設ければ、複数の口座を持つことができるという。利子のうち一部がボランティアに使われるそうだ。それを聞いた母親の口から、平素から嫌になるほど「他人の役にたつことをしなさい」と言っていたあの口から、何の躊躇もなく、一瞬の間を置くこともなしに「そんなんやめなさい。無駄やん」という、およそこの世にある言葉のうちもっとも醜い言葉がこぼれ落ちてしまった時、子供は恐らく母親に対して殺意に近いとさえ言える感情を抱いたに違いない。
 名言によるあらゆる方向付けと教育が、全てはたった1円や2円の母親の利益のためだけに利用されていたということを確信させるに足る出来事として――もちろん同形式の事件は幾度となく反復されていたにせよ――、この体験は子供の心にあらゆる価値を転倒する必要を迫るものとなったのである。

 私と共にこの教育の犠牲となった姉と同様、私は今でも親と会話することが何よりも嫌いである。それは、あれだけ「偏ってはいけない」と言っていた両親が、結局偏った宗教に入信したからというわけではない。「常識を持て」と繰り返す彼らが、3日ほど電話に出ないだけで、警察を呼んだり大家に電話したりして、大騒ぎになり皆に迷惑をかけるからでもない。電話で話すや否や、未だに私に対して「名言」を語り続け、独りよがりな感動にまみれ、そのついでに「普通社会人になったら、親に感謝し、送金するもんだ」などと言ってくるからでもない。そうではなく、そのような名言=制度を好んで用いる以外に「教育」する方法――正しい世の中のありかたを正面から説くとか、あるいは頑張っている自分を見せることで子供の感動を誘うとか――を持たなかった親に対して、何かを語ることの一切が、すでにむなしいからである。
 従順で、温厚で、友達付き合いも比較的上手に育った「良い子」が、いかにしてあらゆる種類の名言教育から「冷めて」しまうかといえば、この種の矛盾とダブルバインドが彼の精神を苛むときである。これは、「落ちこぼれ」がカオスとしての純粋悪に変移する過程とも同じである。いずれの変化も、その名言教育システムの中では通常は不可逆であり、二度と同じ名言=制度は通用しなくなる。名言を既に完全に相対化した相手に向かって念仏のように名言を唱え続けることは、滑稽なだけでなく相手を苛立たせ、恨みを抱かせるようにしか機能しない。
 名言教育によって、被教育者をある種の方向に導こうとすることそれ自体に何か不適切な部分があるわけではない。一般に教育は、国力の増大だとか、弱者からの搾取構造の構築、といった制度的目標を持つがゆえに、「矛盾」めいたものを孕むほかないからだ。重要なのは、名言教育が破綻した際に「タネ明かし」できる知性があるかどうか、ということである。その教育が相互の生活の充実のために、不可欠とは言わないまでも妥当であったことを示しながら、もはや必ずしも有効とは限らなくなった「愛情」などの言葉の代わりに挿入されるしかるべき単語を用意できれば、名言教育の外部に立つ者との間に頼もしい共犯関係を結ぶことができるかもしれぬ。外部の存在を頑なに隠蔽し続ける教育が、教育であるからこそ必然的に内包する矛盾の露呈とともに瓦解するのは、大量の情報が提供される現代においては、一過性の風潮ではない。


(※注記:『名言と愚行に関するウィキ』復刻版マガジンは、無料記事を多く含む予定です。モチベーション維持のため、応援、ご支援をいただけると大変うれしく思います。)

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