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【論理的に考えよう】民主主義お花畑のお話

どうもこんばんは、エンジニア、著述家、元東京大学非常勤講師とかをしつつ、時々すもうを取っているとつげき東北です。しこなは当然ですが、「東の西」です。
行事に「にし~ィ~、ひがしのにしィ~~」と言わせることで、「この行事何言ってるの? おかしくね!?」と皆さまに不審がらせることが人生の夢です。それ以外に人生の夢が1つもないこと……誇って……いいですよね?

さて最近、「物事を一切論理的に伝えてこない人」と遭遇しましたので、「論理的」に考えることと、そうできる人とできない人(できるけれどやっていないのかも、ですが)が二極化する謎に迫るため、とつげき東北はアマゾンの奥地へと向かった。

どういった会話がされるか

その方は、Twitter等で「表現の自由戦士」などと自称していらっしゃる方です。

こういう方です。

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まあ、それはそれとして、私と青識さんと、過去から振り返ったやりとりの流れは、ざっくりと、以下のような感じです。
 ※「青」は青識亜論さん、「凸」は私とつげき東北です。

「表現は自由であるべきだ。アニメ絵などの表現規制はひどすぎる!」
「はい、それは耳にしております。『表現の自由』は、憲法で保障された基本的人権ですので、他人の人権を侵害したり、『公共の福祉』に反しない限り、守られるべきです」
「どこまで表現して良いのか、規制派と折り合いをつけるべきだ」
「……はい!? 憲法で守られた権利を侵害されたのに、どうして話し合いで『ここまでは侵害して良い』などと決める必要があるんですか?」
「それが民主主義だ」
「憲法は最高法規です。規則は個々人の『納得』に優越します。殺人犯が人を刺殺した場合に、『話し合い』でわざわざ折り合いをつけたりしませんよね」
「第三者がどう見るかが重要だ」
「今ここで大量殺人が起きていて、自分の命も狙われている。なのに『犯人』と『民主主義的な話し合い』をしていたら、実際の権利は守れませんよ」
「ずっと話し合えばわかるはずだ」
「わかりあえない場合、どうするの?」
「それでも対話の努力を続けていかなければいけない」
「表現規制の話に戻りますが、そうやって『話し合いをしよう』なんてダラダラしているうちに、実際に数多くの規制や炎上騒ぎが起きて、表現がどんどん規制されてきた事実はどうしますか。相手は『話し合い』をしてくれないじゃないですか」
「だからといって、規制派のように力づくで解決してはいけない」
「『いけない』かどうか、『第三者』の理解以前に、あなたが個人で決めていませんか? むしろ目がキマっちゃってません?」
「相手と同じ行動に出たら、第三者からの理解が得られない」
「私も作家・大学講師などをしていますが、非常に表現が規制されてしまって困っています。例えば特定の文章がボツになったり、講義内容によっては講義中止にされたりします。日常茶飯事であります。こういった現実を、『話し合い』で解決できるとは思えませんし、『第三者』が誰かもわかりません。その点を話し合いませんか」
「あなたのそういう言い方は気に入らないから無視します」
「『言い方』じゃなく『正誤』で判断しようよ。めっちゃ表現規制&対話拒否してるやん……」

本稿では、青識さんが実質の強い表現規制主義者であり、「表現規制の犠牲者の当事者」のことなどまるでぞんざいに扱った考えをしている事実を記しますが、その前に少しだけ、堅苦しい話を書きます(面倒な人は読み飛ばしを!)。

先に書いたような会話を、大学時代から100回以上体験するにつれ、私は世の中には「論理的」に考え、話せる人が少ないなぁ、としみじみと感じている次第です。
昔から思っていたのですが、日本人は「論理的に考えること」ができる人と、「まるっきりできない人」にとても二極化されています

「論理的」という言葉は置いておいて、まずは二極化について、簡単な別の例にしてみましょう。

二極化の実例

例えば、「基本的な日本語が読める人」と「読めない人」は、日本人ならそれほど二極化しません。
時々、少々日本語の意味を取り違える人がいたりしても、
「今日は晴れています」
という文章を読んで、急に
「やべえ! そうだとすると、近所の犬に年越しそばを10分以内に食べさせに行かないと人類が滅亡する!」
と思う人は少ないはずです。
それはもう論理というより色々危ない。

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この画像を観てハァハァしている人より危ないですね。
私はしていませんよ? ……フゥフゥ。ほら、していない。

「基本的な日本語が読める人」は、日本人である以上、ある程度狭い範囲で、それほど大きくない程度の能力差で分布している(=二極化していない)わけですね。

次に、「中学校の成績」になると、同じ日本人でもかなり実力が変わってきます。向いている人、いない人、真ん中の人。真面目に取り組む人、そうでもない人、落ちこぼれた人……。いろいろいます。
それでも、これも、現代の14歳くらいの人なら、まあ、二極化というほどでもなく、ある程度「苦手」~「普通」~「得意」といった度合いがあって、特別に「苦手」と「得意」の2つに分かれる(=二極化する)ものでもありません。
この「普通」あたりがスッポリ抜けているものを、ここでは二極化しているもの、と呼びます。

それでは、「将棋の戦略知識」「ピアノの演奏技術」だとどうでしょうか。結論から言えば、これらは、先ほどの例よりは二極化します
ようは「ほとんど知らない人」が多くいて、「とても知っている人」も多くいるけど、「中途半端に知っている人」が比較的多くないものです。

二極化が起きやすいかどうかは、人々がそれをどの程度(現代の社会で)必要とするか、そのためにかかるコストはどれくらいか、によります。
将棋をそれなりに頑張ったとしても、大半の人はそれをお金にしたり、そのおかげでモテモテになったりしません。その割に、将棋のプロを目指すのは超大変です。だから、突き抜けてできるプロ等を除いては、言い方が悪いですが「ムダ」になりがちですね。
ピアノの演奏も同じです。読者さんの中で、ピアノで食っていけてる人、いますかぁ?(いたら今すぐお金を振り込んでください!)
実家にピアノがあるとか、ものすごく練習できるとか、遺伝がいいとか(行動遺伝学の研究では、音楽の才能に関して、遺伝率が90%を超えます)じゃなければ話にならず、ちょっと他人の100倍練習したからといって、成功するかは謎です。学習コストも半端じゃないです。あ、私、小学校1年の頃ピアノやっていましたが、毎回先生に「どうして練習してないのっ!」とはたかれていました。だって面倒くせえだろ、わかってください先生。
このように、身に着けた際のメリットと、そのためのコストが不釣り合いな場合に、「二極化」が起きやすいのです。

論理の技術は二極化する

「論理的に考える技術」は死ぬほど二極化します。
みなさんが「論理」にどういったイメージを持たれているか不詳ですが、少なくとも、世の中の大人の大半は論理的な厳密さに基づいて思考していません。医師でも学者でもそうです。
なぜか。
もうおわかりですね。
「論理的に」考えることで得られるメリットが少なめで、それに対して「論理的に」考えられるようになるコストが非常に高いからです。

いくつか例を挙げましょう。

・会社の上司と部下の関係

例えば、会社の上司から根拠不明の、謎面倒くさい命令が来たとしましょう。
たいてい、「論理的に」その仕事がムダだと示すことは可能です。
しかし多くの場合、上司の「見栄」や「プライド」などがあり、仕事の方法は「上司の言うとおりに」することが求められます。日本の企業は至ってムラ社会的なので、「上司に逆らうのはどうか」という『第三者』の同調圧力も乗ってきます。そして、過去の事例などに照らして、ここはまあ、上司さんの言うとおりにやろうよ、ということになります。

以上の過程に、「上司」は一つも論理的ではありませんでした。
周囲の同調圧力なども同じです。
「論理的」であることが、大半の仕事にメリットをもたらさないどころか、変に論理にこだわると、「あいつ、生意気だな」という評価まで受けます。

・学術研究の例

驚くべきことに、一部の学術研究も論理的ではありません。
先ほど、会社の上司の例を出しましたが、もしその会社が本当に先進のITベンチャーなどで、KPI(わからない方は無視してください)が「合理的・効率的にすること」だったりしたら、上司の態度も違ったでしょう。しかし、多くの日本企業はそうではありません。
同様にして、多くの学術研究も、さほど論理性が求められません。
特に憲法学や倫理学、哲学など人文社会学系統は、論理性によって成立していません(最近の若手の科学哲学など、ごく一部を除く)。
具体的に私が倫理学を信奉する人とやり取りしていた際に、『動物からの倫理学入門』(名古屋大学出版会)という本を「これくらい読め」とすすめられて読んでみたところ、爆笑しました。
その本では、「Xであることの根拠」として、「もし、Xではないと考えると、倫理学の過去200年の歴史を否定してしまうことになってしまう。そうすることはできない」(→Xということにしよう)などと堂々と書かれているのです。
※物理学の世界では、200年前に定式化された方程式の誤りが訂正されることなど、しょっちゅうあります。「これまでこれで頑張ってきたんだから、もったいない!」と考えて間違ったまま進む心理的効果を「コンコルド効果」と呼びます。

それくらいならまだしも、Yだと主張する根拠が、「誰もがYだと考えるに違いない」だったりします。私、全然Yだと思わないのですが……。
こうした例は枚挙にいとまがないのですが、学問領域によっては、「論理性」ではなくてそれ以外の「権威性」や「歴史」が重視されていて、そうすると「論理的に」学問を進めるメリットがなくなってしまうのです。易々と権威的な論文を引用して、ある程度自分の感想を付け加えておけば十分な学問成果になるとすれば、歴史的大発見など目指す必要はあろうはずがない。
学術研究の「論理性レベル」も、二極化しています。
数学やコンピュータ科学なら、論理が間違えていたらまるでダメですが、ソフトな自然科学や、人文社会科学では、割といい加減な相関関係から結論を導くようなケースもあるのです。
こちらの女性学ジャーナル誌掲載の「論文」の統計処理のずさんさなら、統計学専門家の私でなくとも、大学学部生クラスで統計学を学んだ方なら、指摘可能だと思います。(高橋幸『若い女性の「フェミニズム離れ」をどう読み解くか ――#WomenAgainstFeminism(2013-2014)の分析から――』
https://s3.ap-northeast-1.amazonaws.com/data.wan.or.jp/journal/4e2bed6c5835c669f637fa468f14c52e.pdf
女性学ジャーナル掲載(https://wan.or.jp/journal/details/8)査読付き論文)
※細かいのであれですが、例えば、「#WomenAgainstFeminism」というハッシュタグをつけて、自分の顔まで晒して何かを発信しようとする人は、当然「うーまんあげいんすとふぇみにずむ」に賛成している人が多いだろうから、まずはその統計的なバイアスを除去する処理が必須です……されていませんね。

論理学や数学での高い実績のあるハンガリーは、最近になって、ジェンダー研究を「サイエンス(科学)ではなくイデオロギー(教条、主義)」として禁止しましたが、まあ、そうでしょうね。

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二極化の結果、権威主義に陥る

二極化した論理能力において、「できない側」はしばしば権威主義になります
自分で論理的に考えたり、研究ができない人は、とりあえず「世の中のエライ人」の言っていることをつまみ食いして、ひけらかしておけば、世の中の多くの人を煙に巻けるからです。

しかし、キチンと自分で研究ができる人なら、権威など一切関係なく、新規性があって正しい結論を得ることができます。つまり、まともに勉強している人には「権威主義」など通用しません。
たとえば、私は、マイケル・サンデルの主張をコンピュータ科学的側面から研究・批判し、以下のとおり著書にも記しています。

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(とつげき東北著『新 科学する麻雀』(2020))

それを、これまで哲学書や思想書をしっかり読んでいないのか、次のように発言してしまいます。

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自分で読んだらいいのに……大学生になったら理解できるでしょう……。
この方は、『善』(『正義』)の話をするのに、おそらくカントもニーチェもロールズも読んでいない――違ったら申し訳ありませんが、読んでいたらあんなグダグダな「論理的でない」やりとりはしないと思います。
というか、どうしてサンデルを読んでいないんでしょう。
大上段に「公共性」「正義」を語っているのに、なぜ読んでいない!?
読むにしても、「解説してくれる人」とか必要? どうして!?

「これから古典物理の話をしよう」
とか思っているのに、「ma=F」という「公式」も知らないんですよ。
どうですかこれ。ひたすら、驚きます。

※青識さん、私に対する根本的な反論があれば、4,000字程度で論理的に簡単に概要をまとめていただけましたら、無償で対応いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

論理ってなんだっけ

ここで、「論理」とは何なのかを復習しておきましょう。
比較のために、「主張」と「論理」を対比させましょう。
「こうだ!」「こうあるべきだ!」は、ひとまず主張です。
表現規制をやめさせるために、「話し合いをすべきだ」というようなものが、主張です。
私がここで「論理」と呼ぶのは、「主張」が正しいこと(あるいは間違っていること)を、理屈に基づいて、補強・反論などすることです。
「話し合いをすべきだ、なぜなら、もし話し合いをしないと、〇〇となり、表現規制をやめさせることができないからだ
といったものです。
先ほどは「話し合いをすべきだ」だけだったのが、「その根拠」を添えていますね。「根拠」があって、「現実的な正誤がつけられる」ようにすると、「論理」になります。

しかし、「根拠を用意しただけ」で、「論理(命題や、推論)」だから正しい、というとそうではなくて、その論理が「正しいか、正しくないか」は、また、それとは別に検討されなければいけません。
一連の「論理」の流れが、事実として(正しい命題として)、また、不足のない理屈で説明(正しい推論で)されていることが求められます。

今の論理で言えば、
・本当に話し合いをしないと、〇〇となってしまうのか、その根拠やデータは妥当か。
・〇〇となってしまうと、表現規制をやめさせられないのか。
・他に効率的な手段や代替手段はないのか。

あたりがポイントです。

極端な例ですが、
「話し合いをしなくても」「100円あげれば表現規制をやめてくれる」場合は、「話し合いをしなければ、〇〇となり、表現規制をやめさせられない」という推論は間違い、ということになります。

少し面倒くさい書き方をすると、
A 話し合いをうまくしないと、表現規制をやめさせられない
B 100円をあげないと、表現規制をやめさせられない

の2つがあって、どちらも満たす場合、つまり「話し合って、しかも100円をあげないとならない(論理記号で書くと、A⋀B)」のではなくて、今回は、片方でも満たせばうまくいくとすれば、
話し合いをうまくするか、100円をあげればよい(同じくA∨B)」
ということなので、
「表現規制をやめさせるために、話し合いをしなければならないのだ!」
と主張するのは、Aの否定を論じただけであり、Bで解決できる部分に反論できていないのです。
よって、
「それなら100円をあげればいいじゃない(Bでいいじゃない)」
という反論で終わります。

全体として、先の、
「話し合いをすべきだ、なぜなら、もし話し合いをしないと、〇〇となり、表現規制をやめさせることができないからだ」
という「論理」は、「いや、100円でいいらしいよ」で消えてしまう超低レベルな、間違った論理なのですね。

以下のやりとりも、青識さんが論理を使わない人であることを示唆していると感じます。
「表現規制の問題を『話し合い』で解決することは無意味。まだしも表現規制してくる相手を銃殺した方が、その解決だけを目的とすれば合目的的である」
という私の見解に対して、「そういう発想は不当」とか、まるでどうでもいいことをおっしゃっています。
「実際に銃殺しろという意味ではない」
と返答したのに、全然理解されない。
こんな対応だと「話し合い」などできません。

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このように、論理の現実性も問題になります。例えば「話し合い」でなんでも解決可能だ、という前提がなければ(または間違っていれば)、「話し合い」で解決可能だ、とする理屈に、あまり期待できません。例えば私が青識さんのように「論理を使わない人」と話し合っても、何も生まれませんよね。

第二次世界大戦が「終戦」した際に、国際条約を破って日本を攻撃した旧ソ連は、話し合いによって、「条約違反で奪った北方領土」を返してくれたでしょうか。返してくれませんよね。
規制派と話合ったら、これまで彼らが規制してきた「萌え絵」だのなんだのを、全部戻してくれて、損害額も補填してくれるのでしょうか。
それはお花畑です。

大変ショボイ例で申し訳なかったですが、ガチに「論理的に考える」とは、あらゆるパターンを想定し、すべての他の可能性を考慮して、現実的にどのようになるかを考えることを指します
ちなみに私は論理・思想に関する単著も出していますし、エンジニアですので、そのへんは非常に細かく詰めるタイプです。

こちらが私の著書です。今度台湾にも翻訳出版されます~。

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※私はちょっと引くほど論理的なので、仕事でも論理を使いこなしてバリューを出しています。仕事術関係の記事も御覧いただければ幸いです。

嘘の根拠を出してはならない

青識さんの話に戻しますね。

表現規制だのの細かい話はすっとばしていただいて構いませんが、私が、「憲法で保障されている基本的人権を制限できるのは、他の誰かの人権が規制されたときか、公共の福祉(利益)が損なわれる場合だけである」との認識の下、彼に、彼のいう「公共(や、「正義」)」の定義を訪ねたところ、「すでに定義した」と答えられました
私は、その発言を信用して、彼の配信50分を全部、念のために聞き直して文字起こしまでしました。
定義、されていませんでしたね。
そこで事実と異なることを言ったら、信頼されないですよ。

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何より青識さんは表現規制派だ

彼は本日、こんなツイートをしています。

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流れてくるTLを見て、私は、「なんという表現規制派だ!」と思いました。
よく見ると、青識亜論さんでした。

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「話し合い」では解決できなかった歴史や、憲法で保障されているはずの基本的人権をも踏みにじって「第三者にどう見られているか」を考えなければいけない、そうでなければ表現してはならない、といった流れを、彼はどんどん作り上げていきます。
驚愕すべきことです。

親友の医師が「フェミニストさんになってる」と反応していたので、こう返してしまいました。

青識さんは「当事者」に寄り添わない

後に詳細を述べますが、私はエンジニアとして、表現を守る活動もしており、同時に、自分がある日突然不当逮捕されないよう、これまで100万以上ダウンロードされてきたフリーソフトすべてを公開停止にする等の自衛策をとっています。日本の刑事司法の運用など、その程度なのです。「話し合い」「人権」など実際存在しません。

青識さんは、自分が急に逮捕されたりしないと信じていて、それどころか彼の「表現」がいきなり差し止められたりしたところで「金銭的な大打撃」さえ喰らわない、私ども表現者から見ると、異常にぬるい世界で言葉をつぶやいています。だから現実味がなく、理想主義的で、ヒューマニストめいているのですね。当事者意識がまったくない。

実際のイラストレーターさんやアニメ、小説等を描く方々、せっかく自分の作品が晴れて日の目をみたと思ったら、「フェミニスト」に燃やされて受賞取り消しだのなんだの。どれほど辛いことか。憲法で言えば財産権の侵害等にもなっているのに。「話し合い」が必要なら、それ、青識さんが早くやってきてくださいよ、って思いますよ。しかし「話し合いが終わるまでは、残念、燃えててください~」と他人事。いやすぎます。

別に、世の中の多くの事柄について、「当事者ではない」から論理的に考えられない、ということはありません。私にはできます。
しかし、青識さんからはそのようなモチベーションが見られません。

「論理的」思考を邪魔するもの、その根源

論理を邪魔するものをまとめていきましょう。

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