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『名言と愚行に関するウィキ』復刻版

とつげき東北」が、かつてweb上に公開していた『名言と愚行に関するウィキ』を復刻するマガジンです。

元記事は2000年前後から書かれていたもので(2005年頃に「当時のサイト」に移行した)、内容的に不勉強なところもあるでしょうが、可能な限り当時のテイストでお送りします。

なお、当該サイトの一部を基にして書かれた著書が、
『場を支配する「悪」の論理技法』
です。

まずは、どういう趣旨のサイトだったのか、というところからです。
以後、注記を除き、サイトどおり。
※「このサイト」「ページの左上」等の記述は当時のもので、本記事とは無関係です。

サイトトップの言葉

 頭がよくなるページです。
 知的な態度でもって、「名言的」に用いられる言葉や行動、議論を分析し、笑うことを目的として作られています。
 論理と分析に裏打ちされた思考を身につけて、うるさい親や上司に反撃しよう!
 子供の「屁理屈」に対しては、真正面から、ロジックと愛情とを持って説明できるようになろう!
 友達や恋人との間に生じる「いさかい」を、うまく調停し、心の安寧を得るための「具体的なやり方」を身に着けよう!

「名言」あるいは「名言的」とは?

試みに、「自分も以前はそう考えていた」という言葉を思い出してほしい。読者諸賢にはきっと、この言葉を耳にした記憶があるはずだ。なぜ筆者がそう言い切れるのかというと、この言葉は、まるでそれが「真理」であるかのように、人々によって「必要以上に」頻繁に用いられるからである。諸賢が人生において、これを聞くのは2度や3度の経験ではあるまい。05/12/25、Googleにて"も以前はそう考えて"を検索した結果、195HITであり、これはネット上において"黄色いバナナ"という言葉――603HIT――を目にする頻度の3分の1近くにも及ぶ。

 さて、「自分も以前はそう考えていた」と発話されたときの情景を思い出せるだろうか。「以前考えていた」自分の考えを、発話者がなぜか否定しようとしていたことを。
「自分も以前はそう考えていた、そして今もそう考えている」
「自分も以前はそう考えていた、当時の私は正しかった」
といった言葉を聞くことは滅多にない
。(後述する事情によって)読者諸賢は、
「自分も以前はそう考えていた、しかし、今はこう考えている」
というように続きがちであることを、体験的に知っているはずである。

 なぜ、「自分も以前はそう考えていた」という発言に続く異口同音の主張が、「自分の以前の考え」をわざわざ否定するという奇妙な一方向性をはらんでいるのだろうか。誰のものでもないが誰のものでもあるこのフレーズが、なぜ多用されるのだろうか。何かこの言葉には、繰り返し使われるべきほどの特別な合理性や真実――バナナの黄色さと同じような――が含まれているのだろうか。

 実はこの言葉は、バナナが黄色いといったような真理性・合理性に基づく発話とは全く別の、悪意ある意図をもって利用される。彼があえて「以前の自分」を否定しにかかったのには理由がある。
 今彼は、彼と意見の対立する誰かの「考え」を、「以前の自分の考え」とそれとなくだぶらせ、「自分も以前はそう考えていたが、年月や経験や知識の増加とともに、そう考えなくなったのだ」と印象付けることで、相手の「考え」は間違っていて、しかも経験や知識が増加すればその間違いに気づくものであるというイメージを与えようとしているのだ――(詳細は自分も以前はそう考えていた参照)。彼は、現在の「考え」がなぜ正しいかを示すことなく、しかも、以前そう考えていたという根拠を示す必要さえなく、現在の自分の意見の相対的な正しさをかもし出すことができる――。
 読者諸賢の耳にしたこの言葉が、必ずしもこのような意図で用いられたかどうかはわからない。しかし、この言葉は驚くほどしばしば、このような形で、つまり発話することで周囲に与えがちなイメージや印象の操作を目指して悪用されてしまうのが事実なのである。

 この言葉の使用がいかに不当で不実であろうとも、この言葉を発することで利益が得られるような何がしかの事情・構造が存在してしまっているために、誰もが機会さえあればこの言葉を使いたがるようにできている。いわば麻薬的にこの言葉は使われ続けるのだ。
 こうした作用を持つものを、私たちは「名言的なもの=名言・愚行」と呼ぶ。

 名言に対する意識的な視点をもって世の中の人々の発言・行為を眺めてみると、じつは世の中には名言があふれていることに気づくだろう。
 古い諺(ことわざ)同士が、時に各々矛盾することはよく知られており、いまどき「急がば回れ」などという諺を得意げに語る者はもういない。だが、それに代わる各種のマスコミ的名言が、かつての諺と同様に、半ば悪意をもって恣意的に用いられ、人々を誘惑するよう仕向けられ、本来の正しさとは無関係に心を打ち、「真実」を隠蔽するよう機能し続けていることはあまり知られていない。「バランスが大切」と「中途半端が一番悪い」、「諦めたらそこで終わり」と「引き際が肝心」、「わかるときがくる」と「あの人には何を言っても無駄」等は、いずれも取るに足りない名言であって各々対義語をなすものだが、これらは話者の都合によって適宜使い分けられ、どれもが「それなりに正しい言葉」だと信じられていることから、何も知らない聞き手はしばしばだまされるのである。

 私たちはこうした名言の構造と作用について知らなければならない。
 このウィキでは、名言を暴き、濫用を牽制するとともに、理性的立場からの反論を記述し、さらには形式と形態とを明確にすることによって、あらゆる「名言的なもの」に対する鉄槌を下してゆく。
 ひとまずはこのページ左上の「項目一覧」を押し、索引を見ていただきたい。あるいは、画面左側の新着ページ群の中の任意の項目でもよい。議論等において違和感を覚えた単語を、「単語検索」で引いてみるのもよいし、各項目内にあるリンクを気分次第で辿ってもよい。
 聞いたことがある言葉、気になった項目、なんとなく目に付いた項目……好きな順でパラパラとご覧いただき、「頭が良くなる」のを実感してもらえれば幸甚である。

このウィキの目的・意図は?

『名言と愚行に関するウィキ』は、以下に掲げることを主目的ないし理想として著述される。

・人々にそれと意識されずに使われ、または実行される「名言的なもの」及びその用法をピックアップし、読者にそれをそれと意識させること
・各々の「名言的なもの」の作用や効能を記述しながら、それらがなぜ慣習化・慢性化するかを、合理的立場から説明すること(その名言の麻薬的側面を暴くこと)
・「名言的なもの」に対して、論理的な反論を例示すること
・実用の意味においては、「議論」等の際によく使われる「名言」への、即効性のある具体的な反駁例を提示すること、雑な「議論」に負けない手法を身につけさせること
・本ウィキで取り上げられる事項にとどまらず、読者が、あらゆる「名言的なもの」に縛られずのびのびと、知的に行為できるように仕向けること

※なお、本ウィキは、項目で取り上げる言葉・行為の全ての意味や使用法を列挙することを目的とする「辞書」ではない。あくまでもその言葉・行為が「名言的に用いられる」側面や状況を取り上げて光をあて、解説を加えるものである。この種の取捨選択は、前掲した目的を達するために不可欠であり、意図的になされるものである。したがって「この言葉にはこういう別の意味もある」「その見方は一面的である」といった類の反論は不要である。

「名言的なもの」をしっかり定義すると?

「名言的なもの(以下、単に「名言」という)」とは、広義には、「その正しさや妥当性が、そうでないものに対して劣っている、ないし優れていることが合理的に推測できないにもかかわらず、何らかの事情によってそれと意識されることなく繰り返される言葉や行動等」を指す。
 狭義には、そのようなもののうち、それを使う当人に知的素養がない故に、その名言の使用等以上に有利になる行為をすることができず、あるいはその行為に思い至らず、慢性的に選択され続けなければならない一連の言葉や行動等を指す。この場合、名言の使用等が当人にとって何らかの利益になるという前提がある。
 狭義の名言には、中年の父親が娘とのコミュニケーション方法に惑ったあげく、使い古された同じギャグを口にするより他にない(そしてそれがセンスの悪いことであると気づいていない)、といった場合も含む。
 さらに、これらのうち「感動に基づくもの」は名言中の名言と言えるだろう。「感動」や「感動を演出できる人間になること」は、凡庸な知性しかなくとも求めることがたやすいものであり、各種の名言の使用等にきわめて深く関連しているものだからである。
 本ウィキでは、上述の定義における「名言」であるような言葉・行動を、名言・愚行と呼ぶ。

(※注記:『名言と愚行に関するウィキ』復刻版マガジンは、無料記事を多く含む予定です。モチベーション維持のため、応援、ご支援をいただけると大変うれしく思います。)

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