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わたしのキャリア〜インターンしながら通信制大学編「居心地の良さを求めて」〜

社会人になって何年目なのか、段々とわからなくなってきた。とりあえず、7年目に突入しているらしい。年齢的にも、もうすぐ30代になるアラサーになった。

そんな私の短いキャリアの中でも、それなりにターニングポイントがあった。

舞台業界に憧れた私は、まず芸能プロダクションに就職するものの、1年半で退職。
教員になるために、通信制大学に入ることにした。

インターンをしながら教員を目指す

仕事を1年半で辞めたこと。他の人が思っているより、私は自信を失っていたと思う。
それまで浪人や留年もせず、「順調」な人生だった私が、3年もせずに最初の仕事を辞めてしまった。
人生を守るための撤退!だった。

実質社会人2、3年目の時代。昼間は2つの教育系ベンチャーでインターンをしながら、通信制大学で教員免許を一から取り、社会人3年目秋の教育実習に向けて準備していた。

通信制大学は、日本の制度ではレポートやスクーリングと呼ばれる対面授業などを合わせて、単位をとっていくもので、必ずしも全てオンラインの大学、という意味ではない。当時は、レポートを全て手書きして提出していた。制度上2年で終えることはできるものの、多くの人が仕事と並行している中で、教育実習と介護等体験もしながらとなると、なかなかその期間で終えられない。(と、知ったのはスクーリングで他の人と会うようになってからだった。)

ときどき思う。その会社に実際に転職することは考えなかったのか、と。当時の私には、転職活動できる余力もなかったし、社員として入るには能力や職歴が足りなかった(と思う)。
が、実際に働くと、同年代の社員さんに対する後ろめたさがあった。
一緒にやっている現役大学生インターン(年下ばかり)を見ると、「ああ、もっと私がしっかり将来を考えて、学生時代インターンとかしてたら、違ったのかな」とも思った。

でも、どこかで開き直っていた。しょうがない。大学生の私は、ミュージカルのことと大学の勉強のことを楽しんでいたのだから。それはそれで楽しかったのだから。
(いずれにせよ、学生時代に学生の特権を使って、いろいろな大人に会うことが大事だと思います、今は。

インターンしながら考える「居心地の良い職場」

いずれにせよ、パートタイムの仕事だったこともあり、教員としての勉強を計画通りに進めることができる環境だった。そして、インターン先で教育業界についてもさまざまな知識を得ることができた。教員としての働き口を求めていた私にとっては、必要な働き方だった。

そして、インターン先で分かった私にとって居心地の良い職場は、「好きな本の話ができる」場所だと気づいた。2カ所のインターンを掛け持ちしていたが、いずれも本について情報交換したり、ニュースについて話したりする文化があった。
「こんな本の話しても、誰にも通じないのでは」と思わずに、気兼ねなく話せることは、本が好きな自分にとって、自分のことを認めてもらえる感覚にもつながる部分らしい。
(インターンをすると、さまざまな職場の雰囲気が見れます。学生の皆さん、働く雰囲気を知るために、インターンしましょう。

東京出身者が地方に移り住むこと

教員としての就活をする中で、インターン先に教えてもらった今の学校を見つけた。鳥取にある学校だ。

地方に移り住むことを自分で選び取ることは、最初の就活の時には考えられないことだった。東京には、自分の趣味が楽しめる劇場や美術館も多いし、家族もいるし、友達もいる。でも、私が知っている首都圏は、日本の人口の10分の1が見ているにすぎない現実だ。日本に住んでいるのに、それでいいのか?もっと見るべきものがあるのではないだろうか?そこで、鳥取に行くことに抵抗もあまりなかった。

地方に移り住むこと、つまり私は一人暮らしすることになった。
そのおかげでより「社会人として生きる」感覚が自分のものになったような気がする。
自炊もするし、買い物にも移動にも欠かせないので、車も運転するようになった。能力値アップである。親に任せていた支払いも自分でしなくてはいけない。大人だ。
鳥取という人口最少県に住むことで、少子高齢化、シャッター商店街、車社会など、日本の地方の現実を少しずつ見ることができた。
結婚でもしなければ実家を出ないのだろうかと思っていた私にとって、地方移住はある意味ウルトラC的なカードだった。

地方に移ってきてわかったが、地方に移る男性の方が数は多いように思う。縁もゆかりもない場所に飛び込む女性は少ないせいか、よく驚かれる。パートナーとの関係も考えて、億劫になる人も多いようだが、実際に調査したわけでもないので、具体的な要因はわからない。だが、多くの人が家族ができてしまえば、簡単に新しい場所で暮らしたり、働いたりすることを選択することは難しくなるのは事実だ。
その時の私にとっては、誰にも邪魔されず、生きる場所を選べることは、人生を生きる上で重要な「自由」ひとつだった。

好きな本の話ができ、自分で選んだ新天地。教員としてのキャリアが始まった。
2020年だった。

#わたしのキャリア

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