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ヴィトゲンシュタイン、レヴィナスに向けて

私の読書傾向からしても、まず主要な文献を読了しないで、こうやって書き始めるということがある。このことがいかに致命的に、権威的なアカデミズムを軽視しているかということを知らせるだろう。つまるところ、私はもう既に誰かによって考えられたことを再び考えることになるかもしれないからだ。このことは、建築の様式からすれば、それまでの系譜が作り上げてきた土台に対して、自らの形式に従って、新たに建築物を隣接させようとする小賢しいものなのだから。時代の奔流の中で、かつて、このような様式を否定する試みもあったが、本件についてはそのようなこととも事情が違う。まさしく私は、その形式自体を軽視している訳である。

では、ポストモダン的に否定と肯定を捉えなければならない。ある個人には選択権が与えられる、それも多種多様な選択肢がある。その中で、個人は消費または生産するのだが、このような行動においての否定とは、つまるところ、選択を軽んじられる状況であり、達成され得なかった可能世界である。つまり古典的な場合と違って、人が絶対的な規律に従って生活するような状況ではなく、より相対的な事態を想定しなければならなくなった。市場の原理とは、究極的に言えば、〈一対一〉の連綿とした交換運動による〈多対多〉の場面である。そこで経済活動は、ミクロなケースを考えれば、個人間の取引においては、二元論的なバトルが生じるのだが、全体としては、ある勢力を持った流れのように見ることができる。人々が発するそれぞれの電気信号は、その電流の多寡に応じて、色々な記憶の夢を見させる。印象に残る記憶と、失われた記憶。

肯定的な場合とは、人々のランダムな経済活動にあっても、一定の強度で、残ってきた記憶領域のことなのであり、同時にそれは、これから失われる可能性のある否定的な翳を、幾分かは保有しているような、そういう肯定である。つまり、本文を記す理由を肯定的に捉えるならば、アカデミズムの劣勢とディレッタンティズムの強権的な外圧にもかかわらず、選択をしたということである。自由意志の限界の状況。

ここで、論理学における排中律が否定されたように思える。しかし、それもまた否定されるときは、明示的な規律抜きで、否定されなければならない。気を付けなければならないのは、私たちのゲームにおいて、均衡されるような状況は想定し得るのだから、すぐさまに混沌とした場面を考えるのではなく、不文的かつ強制的な場面を考えなければならない。実際には、私たちの日常には、暗黙の了解を強いられる場面が多々あり、我々は、確かにそれを選ばないこともできるが、全体として軋轢を生んでしまうこともある。ゼノンの「飛んでいる矢」のパラドックスにおいて、我々が感じる違和感とは、まさに、普通なら飛んでいる矢は動いているのであって、止まっているとは考えないということである。「アキレスと亀」にしても同様で、普通、アキレスは亀に追いつくのである。

この明示的であるがゆえに、教条的な性質を持つ形式論理一般は、その性質からしても静止している。そして静止しているがゆえに、独我論的な性質を孕んでいる。つまりは自体的に存在する存在を自己に帰着させるためには、その実存を殺害することによって、概念化しなければならない。このときエゴイズムは、動いていたものの動きを止めたのだ。19世紀以前のナチュラリストの関心が、動物にではなく、とりわけ植物に向けられていたのは、その認識論的方法においては、暗い部分の少ない植物の方が優位だったことに他ならない。植物の実存的状況にあって、動物のそれと違うものは、定位された身体が不動性を持つのか、動性を持つのかという、この二項においてである。ここで動物においての本質的器官の不可視性について触れるならば、全き動くということそのものについて論じられなければならない。この方法は、まさに暗示的かつ啓示的であり、殺害というよりかは、底知れず蠢いているものを観察するという生気論的戦略の中で、対話という形式を保有する。つまりは弁証法運動の対話としての性質。

ポール・セザンヌ『リンゴの籠のある静物』1890-1894年

動くということそのものについての試論は、動作一般について、形而上学と地上的な問題からなる。誤解がないように言っておきたいが、形而上学、つまりは絶対的に〈他〉なるものと、地上的、〈同〉なるものにあっては、それらが対称の関係にあるわけではなく、単純な表裏一体の構造をしているわけではない。絶対的に〈他〉なるものは、常に自己の論理空間の外部に、それも座標平面においての移動であれば、同じ地平を巡り歩いては、どこまでも合流することのない、ある高さを持った、無限の階層からなると言わねばならない。そこで確かに、時間の止まった空間の中を、それもひとつの可能世界の内部を隅々まで探究することはできるが、そのような操作は、極限をとることであって、その性質からして近傍的であるため、実際に無限的であるとは言えないのである。

〈他〉は〈同〉に回収されない、まさにこのことによって〈同〉は生存している。もし〈他〉が〈同〉と共通の部分を持ち、もしくはこの二項においての、弁証法運動の過程で、自己同定されることがあれば、観念的な場の前に、〈他〉なるものの実存が破壊され、単一の〈同〉になる訳だが、凍りついてしまった完全な概念と完全な自己の関係は明らかに無媒介であり、そこに生命活動はない。つまりは、新たなる〈他〉の出現が無ければ蘇生され得ない。このポンプの収縮と弛緩のためには、概念的なものの他に、絶対的に〈他〉なるものが充溢している必要があり、そのことによって、生命は動くことができるのである。

このように動くということは、それ自体において自己同一性を必要とする。そしてこのエゴイズムに対して他者が存在しなくてはならない。そのことによって、はじめて媒介的になるのであり、この媒介は通常、動作一般として表れる。植物が我々の目から見て、殺害されているように思えるのは、植物自体が自己同一性を持っているとは考えないためであり、実際、定位されたその場所から動くことが無いのだとすれば、動物のそれと比べて対話をしないというのは確かであるように思われる。ここで、もし人間と同じように痛覚があり、意識もあると断言するならば、それは自己の概念を、植物に投影することによって、植物の他性を奪い、その実存的状況を殺害しているに過ぎない。その他の概念的な状況も同様である。形而上学的な他性とは、もっとも理不尽な状況に際して表れてくることだからである。

我々が生気論的戦略を据えて達成したいのは、ある一種の文体論であり、その中身は、言葉という概念的な殺害にあっても、実はその文章の中では生きていると感じられるような、不思議な魔力を持った魅力についてである。現に今、私を書かしめているこの情動は、題目にもある通り、ウィトゲンシュタインとレヴィナスの直接的な影響を受けている。このこぼれ落ちた空虚な呼びかけに対して、私は反応したのであり、このエクリチュールの連鎖は、まさしく対話的であり、生気論にとっての生命の尊重そのものである。クオリアの問題。

最後に、クオリアの問題に際して、ウィトゲンシュタインのパラドックス、「我々のパラドックスは次のようなものだった。規則は行動の仕方をどのようにも決定できないだろう、というのもどのような行動の仕方も規則に一致させられるのだから。」(哲学探究 201節 抜粋)、このことについて、コミュニケーションは空虚であるという捉え方は間違っていないように思える。しかし、このことこそが、我々に形而上学的実践を反芻させ、試みさせるならば、私はそれを肯定したいと思うのだが。

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