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亞聾啞者

「咽が痛え」
それは恐らく、この冬の寒さの所為だろう。御負けにエアコンをだらしなく稼働させ続けていると、室内が段々と乾燥してくる。砂漠の様に水の足りない処で、しばらく身を動かさずに居れば、躰中のあっちこっちが痛むのは仕様がない。多分、就寝中に大鼾を掻いているのかもしれない。下手すれば、息の根が絶えているやも知れぬ。寝覚が最悪だった。胃が靠れるは、鼻は詰まるは、耳が鳴る。胡蝶の夢も、若しも蝶々が、瞼の掠れる視界に入り込んだならば、復た私は目を擦ってみるだろう。そういう風にして、睡眠と不眠の関係を探ってみる。屡々、慌てた様にコップを持ち出して、水を汲み、それを束の間に呑み尽くすということを繰り返した。十分滑稽な話だ。悪夢に魘される閑もなく、現実に魘されたいとまでに思う様になってしまった。鼻が止まないから塵紙を曳いてみるが、幾ら曳けども、先刻呑んだばかりのコップの一杯が、透明な鼻水になるだけだ。悔しくて何度も何度も鼻を擤んでしまい。仕舞いには鼻血が出た。鮮血だった。耳鳴りが劇しくなって、頭がくらっとした。今にも倒れたい気持がしたが、鼻血の続く限りでは、仰向けにもなれぬ。ただ布団の上で、温順しく坐って、早く止まないか、ということを頻りに願う。一度強く擤んで、塵紙の上に、紅色と例の透明色が落ちていった時、イカサマな現代芸術の“theme”に見えたのが、可笑しくて堪らなかった。悔しくて悔しくて。いま水涕を垂らしたとしても決して泣いているのだとは思われまい。

一件落着の後、気を絶えた様に寝た。それも良く無かった。相も変わらず咽の痛みと決別するでなしに、左耳の聴力が乏しくなった。鼓膜のくぐもった様な感じは、海洋に沈んでいく潜水艦の様に地上との連絡を困難にする。ただ脳裏に響く耳鳴の音が、通信不安定な船内のホワイトノイズの様に響くだけだ。亦、深海の更に深まるにつれて、襲ってくる凄まじい圧力の所為で、眼窩は窪んでしまいそうになり、顔面の変形に係る力と修正しようとする力の拮抗した処に、横溢した力が、顔を真っ赤に染め上げ、殊更、耳の異様に熱くなっていくのを感じて、一向に暖かくならない部屋の中で、ただ私の頭部だけが火を吹いて、焚火のように落ちていた。「亦寝るかな」

こう云うことを、二三日の間、繰り返して、事態の良くならない中に、夜勤アルバイトに出なければ行けない時刻になった。布団から起き上がる時、風呂に入る為に全裸になった時、瓦斯が水をお湯に換えるまでの間、引っ切り無しに、この寒気が異常であるかを確かめていた。よく「馬鹿は風邪をひかない」というが、よくよく彼時のこと思い返してみれば、「馬鹿には風邪が分からない」と云うのが正しく、私は正常ではない状態で、仕事先のコンビニに向かった。飲料品裏で品出ししている時も、異様に寒い気がしたが、六、七度の冷蔵室は、当然に寒いだろうと思っていたし、蚊と思えば、店内の空調が矢鱈に暑く感じてしまい、斗は云っても、足元は膝元くらいまでは冷えているし、手の指先も冷たくなっているのに、頭が燃えるように熱く、復た耳が発火してしまって、その首元を通り、制服の襟が当たるのを極端に厭がったり、そのまま脇の下まで行って、厭な汗を掻かせる。一番困ったのは、客が何云ってるか判らなく、目線の配り方や、唇を読んで判断する他なかったこと。非常に驚いたのは、片耳が聞こえないとなると、半分聞こえなくなるのではなくって、もっと聞こえなくなる。それは平衡感覚を保つ為には、聞こえている方の耳の聴力も落とさなければイケナイ。だから私は丁度ハンブン酔っていた。不幸中の幸い、やっつけ仕事で乗り越えられたのは、幼い頃、罹った慢性中耳炎か何かの所為で、手術してチューブを入れたとか、外したとかで、何時何のタイミングで聴力が下がったかは知らないが、兎に角、元から耳が悪くて、おまけに阿呆で、他人の云ってることが、只の音にしか聞こえないと云う別の事情も含めて、日頃から(他人と違うやり方で)読心する術を身に付けていた。成程、不断から他人と比べて酔っていたのならば、ハンブンの半分酔っていたことになるな。私はとても疲れた。その日は異常に疲れて帰ってきた。勤務の後半は釣り銭の過不足かで、優しい人が注意してくれたから、多分、レジも異常になっていたかも知れない。それよりも私は疲れ切って頭が頻りに痛み出し、酷く寒くて仕様がなかった。モノレールを待っている間、そういう逡巡ばかりしていた。伸びた線路の向こうから、ヘッドライトが夜明けを劈いていくのが、もうすぐ列車の来るのを報せる感じがして、耐え難かった。熟々熱い耳だけが、師走の冷ややかな風を悦んでいた。やがて見る物の都てが自家撞着してしまい、車窓から覗く夜更けの空に、光と闇の対立を垣間見て感動したり、手元では田中英光傑作選の小品を総べて、朦朧としながらも、活字と頁の流れの中を泳いでいた。モノレールが最寄り駅に着いた時、もう夜空は白んでいて、朝の勝利という感じがした。ただ私には夜の感じが未だあった。いつもの帰路を外れてコンビニに寄ると、第三ビールなどではない、ちゃんとしたビールを買い、高級なハイボール缶も買った。

煙草を吸った。咽が痛かったが、頭の方がずっと痛かったから、治ると思って、一本吸った。耳が火照ってたから、外にいた方が気持が良かった。ずっと寒かったが、それよりも空が綺麗だった。家に着いてからも、部屋に入らないのは、馬鹿みたいだったが、仕方がない。玄関に荷物を放った後、一寸だけ風に当たっていた。室内に戻った時、何故木造建築だのに、こんな金属のような冷たさのする部屋なんだと思って、これではビールを冷蔵庫に仕舞う必要も無いなと、案の定、キンキンに冷えたままだ。ビールを一口呑んだ時、咽は痛かったが、躰は渇いていた。一口で半分は呑んだ。五〇〇mlだから二五〇mlは呑んだ。多分風邪だが、不眠の方がもっと酷かったから、寝られると思って呑んだ。間も無く寝た。

しばらくして一回起きた時が、一番最悪だった。昼前頃だった。此の処の不調が、都て倍になって返ってきた。潜水艦は更なる深海を求めて行き、その分、頭部の焚火は燃え盛り、躰は水圧に押され、拉げて、通信は途絶え、ただ個室にメーデーを発する個人が居るだけになった。その個人は可哀相に気絶した。船は自由を失い、やがて海の屑となる如く潜り続け、拉げて破損された金属片が、ただ大洋の中で、夫々に散らばる。

丸一日寝ていた。起きて、頭が擽ったいくらいの冴え方をしていて、気持良かった。耳鳴が止まないのは相変わらずだが、鼓膜が開けてきて、多分、良くなっているのだと思った。もう耳の火事は起こらない。目はジンとして、鼻は多少垂れる。私は、昨日呑み掛けたビールの余りを、発泡酒の何倍も糞不味い物を呑み干した。口直しで呑んだ水が躰を潤して行くのが感じられた。それで煙草を呑んだら咽が痛かった。「畜生!」という感じだが、仕様がない。耳鳴がずっと続いて仕様がない。

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