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詩的表現のすべて

なぜある人は、わざわざ物事を難解に説明しようとするのだろうか。なぜ読者に、それも多くいる読者に応じる形ではなく、尤も困難を来たすような表現を用いるのか。

時に、物を当たり前にあるように素朴に書くことを、詩人は通俗的だと言うだろう。では、日常における言語表現と詩人のそれでは何が一線を画しているのだろうか。

話が変わるように思われるが、人々の欲求にアクセスするためには、何を欲求しているのかを探してはいけない。その人が断固として何を見ないようにしているのかを覗くのだ。

外界と内界の話をしよう。ある人はシャイで、人と目を合わせて喋るのが上手くできない。挙動不審で、時折、吃ってしまうのだ。内省的な彼は、きっとこんなことを常日頃から思っているのだろう。
「他人は私と似て恐い。」
日々、反省をして、自分の内面にいる邪悪な怪物を見てきたから、世界の外側で、このような怪物が歩き回っているのを見て、怯えているのだ。

ある井戸端会議で、奥様方が近隣のゴシップを嗅いで回っている。彼女たちは何を見ている?
世の中が、最近物騒になってきたことは知っているみたいだが、よその子が如何に優秀であるかか?隣の家の離婚話か?
では彼女らは、何を見ようとしていないのか?
世の中にある物騒な現実を見て、きっとこう思うのだろう。
「ああは、なりたくないねえ」
当然、彼女らの不始末も何処かでは、ゴシップになっていると言うのに。

内界に安住する人は、世界の外側に恐怖し、外界に出向いて行く人は、世界の内側を臆するのである。このとき世界は、それぞれ精神世界と物質世界である。

詩的表現における「世界」とは専ら、精神世界である。であるから詩人が詩の中で「世界」と言ったときには、「孤独」と解釈しなければならない。

山登りが、ある山の斜面の途中で振り返った。見晴らす限り、青い空と遠い景色、下の方には人々の生活している風景が窺える。さらに足元を覗けば、これまで歩いてきた道が見える。この特異な環境の場こそが芸術の地点であると、登山家は、神聖な山の空気に触れ、私は天界へ続く梯子を登っているのだと、そして下界の人々は低俗なのだと思う。

詩人は真理を語っているだろうか。小説家ならフィクションは許される。SF作家も寓話作家も、リアルではないがリアリティのある装いでもって、我々に示唆を与えてくれる。私はいつまでかは覚えていないが、詩人くらいは、この世界の中で本当のことを語ってくれているのでは無いかと思っていた。当然、彼らが嘘をついているのかと言えばそれは違う。ただ、見られたくないものを、見せないようにしているだけだ。

では、なぜ隠している?
禁断の恋だからか?部分性愛か?異常性愛か?

彼らは怪物と対峙しなければならない。すると遠くから少年少女の様な可愛らしい声が聞こえてくる。私はその声の出処を探して、ついにはその子の正面に立った。なんとも儚げに、寂しそうに立っている。時折、私の袖を掴んで来て、寄りかかりたい様な重心をして見せては、ふらりと掴めないような存在であった。私はその子の気持ちがわかったような気がした。

最も素朴に、それは決して物質的だとか、精神的だとかというものではなく、純粋に素朴なものとしての、表現を私は知っている。それは、笑顔だ。そして泣き顔である。

「花が咲いた」
なんと素朴な表現だろうか。しかし、こんなにも嬉しくなる文章はない。きっと瑞々しく、生命としての歓びを、少女の笑顔のように表現してくれたのだろう。私たちはそれに言の葉を与えた。

さて、こんなにも可愛らしい子供を、怪物に引き遭わせることなく、あの一輪の花の場所へと向かうためにはどうしたらいいだろうか。さらに言えば、少年少女の憩いの場であるような楽園に行くためにはどうしたらいいのだろうか。

詩人が、愛と死、幸福と苦悩、不安と孤独、これらの大仰な、そして過酷でさえある問題に立ち向かったのは、何を守りたかったからなのか。幼少の記憶と、何処とも知れず、郷愁に安堵し、感動するのは。きっと私は、幼少時代の自分のことを愛しているのだろう。

言の葉を掻き分けたその先に、幼い私がいて、そこには、私が許した人だけが入れる。詩の難解さは、その暗号である。

最も難解な言葉は、最も素朴な思いからやって来る。つまりはどれだけ精緻に書かれているか、千頁に及ぶ大長編を書き上げたかということが、問題になるのは、いつも読者の側で、本当は、「寂しいよ。」ということを言いたかっただけなのかもしれない。

同時に懸念しなければならないこともある。私にもノスタルジックな気持ちはあるが、記憶の中で美化されている節がある。

(幼い頃の思い出から)
私がその大きな枯葉を退かすと、そこには夥しく動き回る蟻たちがいた。背筋がぞっとして、ついに私は蟻の群れを一蹴してしまった。蟻の列を靴で踏んづけて混乱させたり、巣穴に水を入れたらどうなるだろうと思って、沢山の蟻を殺した。

また別の日、小学校からの帰り道で私は芋虫を踏み潰した。腹が抉れて、両断された所から緑色の血が出てきた。地面でその血液を拭ってやると、私は一目散に逃げ出した。

実を言うと、これらの悪事もノスタルジーの一部になっている。詩的な問題はいつも内面世界の循環において、美しい世界を作りあげてしまう。そして穢れは、いつも神によって赦されてしまう。

「私は悪くない。」

本当にそうだろうか。お前が生きる所の世界を否定するのか。だけど内なる子供よ、お前は、お前だけは、お前の中の悪を赦せるのか。そうすると子供は、泣き出してしまった。そして相応の罰を受けたいと懇願してきた。私もまた瞼を腫らして、抱き合うことしかできなかった。

どれだけ近い将来かは分からないが、やがて、詩的なものは敗退するだろう。少なくとも劣勢の状況にはある。罪悪感という精神状態にあるとき、罪を犯した事実があれば、私はそれを免れないだろう。恐らくこれからも直接的に、または間接的に世界の悪に加担するしかない。

公共的な問題については、世界は偶然的で、残酷な振舞いをすることが分かってしまった。哲学の問題は皮肉なものとして表せる。そういう世界内存在の人間として、極端に現実を見つめるのは、罪を認めているようでいて、代償を支払うつもりは無い。

アルベール・カミュが哲学は自殺の問題であると言った。私もこの世界は不条理だと思う。そして彼が言うように、そこでは、生への欺瞞が横行している。最も論理的な思考は死に至るまで貫かれる論理性を確認できず、自殺を選ぶかもしれない。このとき咄嗟に三島由紀夫を思い浮かべた。彼の自殺は、彼のお気に入りであった『葉隠』の内容に即して、大義的な死に方であった。しかし整合的、あまりに整合的である。私はこれを極端なリアリストと呼ぶ。

彼はいつも死ぬ理由を探していたと思う。それは生きる理由が見つからない世界でどうやって生きたらいいか分からなかったからだ。やはりカミュの言葉を借りるなら「真の努力とは、可能なかぎり厳しく思考をつらぬいて、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討することなのである。」私は先ほど、詩的表現は敗退すると言ったが、この限りでは、何かしらの有効性があるのだと思う。

しかし、それは同時に、あの子供だけの楽園を失うことかも知れない。怪物が侵入してきて、彼らから一輪の花を取り上げてしまうかも知れない。子供は、初めて間近に見る残酷なものに、驚いてしまうだろう。しかし、しばらくして、それに溶け合うように、怪物もまた純粋なものに惹かれるように、それはもう世界そのものである。

罪と罰によって世界は生成される。それは、哲学的不条理な生と詩的自由な生との呼吸によって、秩序とカオスを体現するということである。つまりは、海辺の潮風になびく松の木のように、曲がりながらも

このとき詩的なものの表現は、素朴な感情の吐露という真実性から、世界に共鳴する真理性へと移り変わる。

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