体験者ではなく、経験者でありたい。

経験と体験の違いを説明できますか?

私はつい最近まで、この2つの大きな違いをあまり自覚していませんでした。

「体験」は、実際に見たり聞いたり行うこと。 「経験」は、実際に見たり聞いたり行うこと。 またそれによって、得られた知識や技能のこと。

シンプルにいうと、「体験」は行為自体を指すのに対して、「経験」には、そこから身に付いたものも含まれる、ということです。

教員現場では、この2つの言葉が至る所で飛び交っています。

でも私の実感では、「それは違うのでは?」と思う場面もあります。

教員を主語にした時には、「経験」という言葉がよく使われています。

〇年経験者、主任経験者、研究授業経験者…など、教員には様々な経験者としての肩書きが付きます。

「〇〇先生は、〇年生の担任を経験しているから、大丈夫だね」

なんて会話もよくされます。

まずここがおかしいなと思うのです。

教員何年目でも、主任でも、研究授業でも、何年生担任でも、その場に置かれた瞬間から「体験」はしています。

でもその体験から、本当に置かれた場にふさわしい力を身に付けて過ごしたかどうかは判断が難しいものです。

そこには双方向的な視点が存在します。

まず、主観的に身に付いたかどうか判断する視点。

例えば教員を10年体験したとしても、10年過ごした時間に見合う力が自分自身に身に付いたという実感が湧かないのであれば、それは10年経験者と本来ならば呼ぶべきではないと思います。

この自分の実感が湧くかどうかは、自分で自分のしてきた努力の過程や、その結果身に付いた力について鮮明に言語化できるかどうかが大きな鍵となります。

自分としては体験に見合う経験をしていないのに、「経験者」と言われることに違和感を感じるのです。

次に、客観的に身に付いたかどうか判断する視点。

例えば、いくら自分では研究授業がんばりました!良い経験になりました!と言っても、参観された先生方からすると研究授業とは言い難い授業だったらどうでしょう?

研究授業は確かにがんばっています。その体験を通して。でもそこに周りの先生からの客観的な視点が加わっていないのに「良い経験をした」と判断するのは危ないと思います。

周りから見たら体験に見合う経験をしていないのに、「経験者」と自分を主張することに違和感を感じるのです。

逆に、子どもを主語にした時には、「体験」という言葉がよく使われています。

体験学習。〇〇体験…

でも私は、子どもを主語にしている時こそ「体験」で止まっていてはいけないと思います。

先程の教員を主語にした時と同じように、主観的に見ても、客観的に見ても、子どもたちのことを「経験者」と呼べるように、教育に携わりたいです。

つまり、経験につながる体験をいかに積み重ねていくか。

ここが一番重要なのだと思います。

体験と経験。

みなさんはいかがお考えですか?

ちなみに経験の「経」は「筋道をたどる」、「験」は「証」という意味だそうです。

どうせなら、体験者ではなく、筋道をたどった証をきちんと残せる経験者でありたいと私は思います。

本物の経験者にしか実感できない、身に付く力がきっとあるはずです。

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