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カサブタと忘れられた傘

人生とは、苦しいものだ。そう思うことはおそらく誰にとっても自然な感覚であり、避けることのできない現実だろう。8割は苦しみで満ちていて、残りの2割で何とかその苦しみを和らげながら私たちは日々を生き抜いていく。それが「普通」なのかもしれない。生きていく中で死という逃げ道すら倫理に縛られ、許されないという不条理さを感じることがある。しかし、だからこそ生きることに意味があるのではないだろうか。

「死にたい」と思いながらも、それでも生き続けること。その矛盾こそが、人生における最も美しい姿なのかもしれない。苦しみの中で踏みとどまり、前を向くこと。それは、決して無駄な行為ではなく、むしろその行為こそが人生の意義を形作っているのだろう。だからこそ、私は「なんて、人生は美しいのだ!」と叫ぶことに意味がある。人生の苦しみを認めつつ、それでもなお美しいと感じられる瞬間が存在するからだ。

悲観主義に陥ることは容易い。実際、多くの人がその深淵に足を踏み入れる。だが、それは特別なことではなく、当たり前の反応だ。人間は脳が発達しすぎたがゆえに、あらゆる可能性の中で最も悪いものを想像しがちだ。それが私たちの強みであり、同時に弱点でもある。だが、そんな時こそ、平然と立ち向かう力が必要だ。簡単に諦めるのではなく、むしろその苦しみに飛び込む勇気を持つことが、美しさの一部なのかもしれない。

馬鹿なふりをすることが時には強さとなる。私の苦手とする「何も考えない」という行為も、強く生き抜くための方法かもしれない。苦しみに対して自ら進んで飛び込み、そこに挑戦する。それを楽しむことができれば、私たちは苦しみの中でも新しい意味を見つけ出すことができる。人生は常に鞭打たれるように厳しいものであるが、私たちにはその苦しみを「解釈」する力がある。

事実とは存在せず、あるのは解釈のみだ。私たちは人生における出来事をどう受け取るか、それを自由に選ぶことができる。それが唯一の力であり、人生を豊かにする源だ。解釈の積み重ねこそが「事実」として扱われるのが人生というものだ。それでも、私たちはその中で生き続けていく。自ら選んだ道を歩むことこそが、人生の楽しみ方なのだ。人生の苦しみが選択によるものであっても、それを自らの選択と捉えることで、それは悲劇ではなく、希望となる。

だからこそ、人生は楽しむしかない。どんなに苦しくとも、それは私が選んだ道なのだ。誰かがその選択に異議を唱えるならば、たとえ神でさえも、私はそれを嘲笑するだろう。なぜなら、この人生の意味を定義するのは、私自身だからだ。

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