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ひだまりの丘 6

私が主任をしていた時は、上司の要求にイエスマンにも革命派にもなれず、ただ一人でなんとか業務を回そうと空回りしていたと思う。

そんな中起きた、あの事件は私をやるせなくさせる。
大学病院の内科病棟の主任看護師をしていた私は、橘師長の元で働いていた。
橘師長は他人には厳しいのだが、自身の役職の責任からは逃れるが上手い人という印象が拭えない。
大学病院の急性期の内科病棟とは名ばかりの、要は他の病棟の慢性期だが転院先の見つからない患者の一時的な受け入れ先といった病棟になっていた。認知症やせん妄傾向のある、介護の必要な高齢者や、糖尿病で極度の低血糖になったが、病気の自覚がなく食事の管理を本人が行うには不十分な人、精神疾患があり不安定な行動を繰り返す人など、他科に移る必要のある人もいた。

特にその傾向は橘師長が上に立つようになってから、顕著になっていったように思う。
入院患者の最終的な受け入れの決定はその病棟の師長がくだす。

ベットの稼働率を上げることで、病院全体の収支を上げることができるため、師長は病棟の患者受け入れを積極的に行っていた。
しかし、それは病棟の看護師の負担を上げることにも繋がる。
主任の私の元にも、人手不足を嘆く相談は数多く寄せられていた。
師長にその旨を相談したが、他のもともと人員の足りない病棟に優先的に人材がいっているため、今はいる人数で効率的に業務を回すよう、言われるだけだった。
年末になって、ノロウィルスやインフルエンザが流行る時期になると、抵抗力が弱っている患者はもともと持っている病気に加えて、発症する人もいる。
他患者にうつらないよう、部屋を分けるのだが、その移動に一人二人と取られる。
4人部屋で、一人ノロウィルスと思わしき患者が嘔吐した時、運悪く隣の患者に吐瀉物がかかり、感染は一気に広がっていった。
感染予防のマニュアルはあったし、それに沿って対応もしていたが、吐瀉物が直接隣の患者にかかったことは防ぎようもなかったことだったと思う。
職員も感染する者も出て、病棟の看護師の人数も激減していた。
病棟看護師の一人当たりの業務は膨大なものとなり、悲鳴が上がっていた。
私は土日来ない師長に、月曜の時点で他の病棟からの看護師の応援派遣を要請した。
病棟看護師の業務の調整は主任である私が行っていたが、人員の調整は師長の承諾がないと動かせなかった。
師長はなかなか動いていないように見えた。
金曜日に応援派遣について、再度確認を取ると他病棟の師長も自分も土日は休みのため、来週の月曜に調整すると言われた。
土日の人員に余裕がなく早急に対応が必要だと申し出ても、あなたは私の仕事に意見するのかと言われてしまった。
もちろん、橘師長にも考えがあったのだと思う。

あらゆる悪いタイミングが重なったのだと思うし、監督責任が欠如していたと言われれば頷くしかない。

土日と日勤だった私は師長代理として、病欠で頼りない人数の看護師と共に朝礼を済ませた。
その日は、経験3年目の看護師、あとは独り立ちしたばかりの一年目3人、午前中までのパート看護師一人と私で病棟の50名の患者を担当した。
7:1の看護基準に満たしてない看護師の数である。
私は朝独自の判断であったが、他の病棟に看護師で応援に来て欲しいと相談に行ったが、どこの病棟も人数が少なく断られてしまった。

看護師もAB二つのチームに分け、それぞれリーダーを立てる。
リーダーはそれぞれの看護師の業務の割り振りやチームメンバーが業務をまわせているか目を配る役割を担う。
Aチームのリーダーは経験3年目の看護師、石井未来さんを立てたが、Bチームのリーダーがいない。
まさか常勤と言えど、一年目を立てるわけにいかない。
そのため、午前中はパート看護師にリーダーをしてもらい、午後はAチームのリーダーの石井さんに兼任してもらうことにした。

午前中の病棟全員のオムツ交換、清潔のための介助、点滴の交換はなんとか終わった。

石井さんは、一年目のプリセプター(お姉さん役)も兼任していた。
彼女は一生懸命後輩を指導しようとする熱意が強く、かえってプリセプティの一年目の看護師、田無 杏さんが恐縮し、過緊張からかミスをすることがあった。
午前中の業務がひと段落ついて私が看護日誌をつけていると、田無さんが泣きながらナースステーションに帰ってきた。

「田無さん、どうしたの?」
と聞くと、
「石井先輩が、厳しすぎです。もうつらいです。」
と泣く。
おそらく、慣れない他チームの兼任のプレッシャーで石井さんもキャパオーバーでつい田無さんに厳しく当たってしまったのだろうと推測した。
詳しく話を聞いてあげたかったが、患者の昼食が病棟に上がってきたので、スタッフ総出で昼食の配膳をしなければならない。
Bチームリーダーのパート看護師は、午前中までの勤務だ。
とりあえず同じAチームの二人の距離を取るため、石井さんをBチームのリーダーに専念してもらい、私がAチームのリーダーをすることにした。

石井さんは、プリセプティの田無さんが直接主任の私に相談していることを察して、物言いたげであったが、今フォローの声かけをする暇はなかった。
今日終わったら、気分転換で飲みに行こうと誘うとうなずく。
田無さんは早めに休憩を取ってもらい、その間フォローしようと思っていた。

Aチームの食事介助が必要な患者の中で、206号室には高齢の患者が特に多かった。
その中で、広澤さんは私が新人の時から何度も入院を繰り返している患者さんだ。
絵を描くのが好きで、体が動くうちはスケッチブックを病室に持ち込み、オーバーテーブルでよく絵を描いていた。
初めは、パーキンソン病の症状コントロールで入院してきていたが、年を重ねてから食事にむせることが多くなり、最近は肺炎で入院しては軽快するというのを繰り返してきた。
パーキンソン病の症状が徐々に進み、動きも緩慢になってきていたから、食事を飲み込むことも彼には一苦労だと思う。
それでも広澤さんは、「食べるのが好きなんだよ」と、食事の形態を流動食にするのを嫌がった。
柔らかくても、形のあるものを食べたい。
それが、広澤さんの望みだったし、実際流動食を出すと彼はほとんど口にしなかった。
そのため、軟食という形で提供し、スタッフが飲み込みを見守り手助けをしていた。

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