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夕暮れの飛行機雲①

 五月の風がバラの香りを運んできた。
 隣の家のおばさんはバラづくりが趣味で、毎年この季節になるとむせるようなバラの香りが私の家の庭まで届いた。
 とはいってもこの香りをかぐのは五年ぶりかな。
 去年は病院で、その前の年までは結婚して別の土地に住んでいたから。
 天国もこんなバラの香りで満たされているといい。映画で見る天国は花がいっぱいで、みんな白い服を着て天使なんかもいる。
 最近はすごく身近に感じる天国のことを思う。とはいえ、体の方はどこも悪くない。ただ気持ちが天国に近いだけの話しだ。
 洗いざらした木綿の白いワンピースの下からは細すぎる足が見えた。足元は靴下もはかずにサンダルをつっかけている。とてもニ五歳の女性の格好ではない。
 来年のバラの季節まで私は生きるのかな。とてもそうは思えない。たとえ病気がなくても生きる気力がなかったら人は死んでしまうんじゃないか、そんな気もする。
 そんなとき、隣から大きな声が聞こえた。
「おかえり。待ってたよ。疲れたでしょ」
 隣のおばさんの嬉しそうな声。
「ただいま、母さん」
聞き覚えのある声だ。私と同い年の祐樹の声だった。
 懐かしさがこみ上げた。
「今年も見事なバラだね」
「そうでしょ。あなたに見てもらえると思うと世話も楽しくて」
「毎年綺麗に咲かすよね。俺のもってくるカーネーションなんかかすんじゃうよね」
「あらあらこんなにたくさん。これも嬉しいに決まっているじゃない」
「さ、さ、入りましょ。お父さんもすぐ帰ってくるし。祐樹の好きな物、たくさん作っておいたのよ」
 そんな会話をしながら二人は家の中へ入って行ったようだ。
 マズイマズイ。なんで今なの? 絶対に祐樹に私のこんな姿見られてはいけない。庭に出るのも控えなくちゃ。私はそそくさと家の中に入った。自分の部屋に入ってベッドに腰を下ろしても胸の動悸はしばらくおさまらなかった。
 
 私と祐樹は幼馴染みだった。
 家が隣同士だから、三歳ぐらい小学校低学年までは毎日のように一緒に遊んだ。
 なぜ三歳ぐらいからかというと・・・・祐樹は隣の家にやってきたのはその歳だったからだ。
 私は今でもはっきりと覚えている。
 隣のおばさんが幼い祐樹の手をひいて私の家にやってきた冬の日を。
「祐樹っていうの。今日からおばさん家の子になるのよ。真紀ちゃんと同い年だから仲良くしてね」
「そうなの、祐樹くんね。真紀はちょっとおてんばだけどよろしくね。真紀、こんにちはは?」
 私の母は私に挨拶をさせようとしたけど、私は恥ずかしくて母のお尻の後ろに隠れたっけ。子供の祐樹があまりに可愛い顔をしていたせいもある。
 祐樹は上品な茶色のダッフルコートを着ていて、それも素敵だった。私は「わっ、都会から来た子だ」と思った。ダッフルコートのウールの毛が冬の光に輝いていた。
 祐樹の母親が再婚することになり、祐樹は伯父の家である隣の家に預けられたと知ったのはずっと後になってからだったろうか。そのときはあまりに小さくて聞いても理解できなかったと思う。
 とにかく私は、祐樹の事情を知ったとき、幼いなりに「可哀そうな子に優しくしてあげよう」と思ったものだ。
 三人姉妹の一番下だった私は「弟」がきたことが嬉しかった。「お姉ちゃんがやったげる」と私は事あるごとに祐樹の世話をやいた。美味しいおやつがあると持って行ったり、幼稚園で他のコにいじめられないように注意してたり、寒い日には祐樹が風邪をひかないように自分のマフラーを貸してあげたりした。
 実際、祐樹は中学に入るまで私よりも背が低くて、すぐに熱を出す弱っちい子だった。
 でも祐樹は幼い頃の私の宝物だった。キラキラ光って毎日を楽しくしてくれる宝物。記憶は自分の都合の良い方に変えるっていうけど、そんなことを考慮しても祐樹がいてくれたおかげて私の子ども時代は完璧だった。
 人生の幸せな時間を全部あの頃に使ってしまったのかな、そう思う。
 
 さっきチラッと見た白い服を着た人は真紀かな。
 僕は一瞬そう思ったけど、そんなはずはないとあわてて打ち消した。真紀は結婚して隣の県に住んでいるはずだ。こんな時期に実家にいるなんてありえない。
 でも気になって母に尋ねずにはいられなかった。
「真紀って隣に今いないよね」
「それがね・・・」
 母は言いづらそうだ。
 母は僕のために作った大量の昼食がきれいになくなったのが満足そうだ。スコッチエッグや酢豚やます寿司や餃子などが盛られていたお皿がきれいになっている。
 お茶を急須に継ぎながら決心したように母は言った。
「少し前に戻っているのよ。その前は入院してて・・・。旦那さんとは離婚したみたい」
 僕は思いがけない母の言葉に驚いた。母の言葉を理解するまで少し時間がかかった。ああ、そうなんだ、やっと理解し、そして愕然とする。幸せに暮らしているとばかり思っていた。
「なんで・・・」
 その次の言葉が見つからない。なんであんなに可愛くて優しいコがそんなことにならなきゃいけないんだ?
 結婚式の翌日真紀を見かけた。そのときの幸せそうな笑顔が目に浮かんだ。
「詳しくは知らないんだけど、たぶん旦那さんの浮気のせいじゃないかなぁ。病気の方はぜんぜん知らないんだけどね」
 僕は悔しかった。そんなヤツと結婚した真紀の運命も悔しかったし、それになぜかわからないけど僕自身にも悔しかった。
 真紀と過ごした幼い日々は僕にとって宝物だ。
 普段は毎日の忙しさで忘れているけど、風邪で寝込んだ日の夕方や、朝まで飲んで帰って、アパートのベランダから朝日を見るとき、そんな日常から切り離された時間に真紀のことを思い出した。
 高校と大学のときにそれぞれつき合った女のコがいた。その子たちのことは思い出すことなどほとんどなくて、顔もおぼろげなのに、恋人だったことのない真紀との思い出はなぜか鮮明なのが不思議だった。


                           つづく


 

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