「肉体の悪魔」 ラディゲ 感想文
二十歳で亡くなったラディゲは、その短い生涯に、喜びも悲しみも一生分の経験をして、そして逝ってしまったのだと読み終えて思った。
もし彼が五十を越えるまで生きたとしたら、この体験が自らのものであれば、その悔いはどのようなものだったのだろう。あくまでも、この作品は自叙伝ではないと明言する必要があったのかもしれない。
大人になっていたら、きっと書けなかっただろう剥き出しの文章は、率直で正直で、世間を意識しない自由な目線がとても新鮮だったが、あまりのお戯に読んでいて少々疲弊した。
女の子に付け文し退学した「僕」の長い「まがいものの休暇」のお話。
主人公の「僕」が婚約者のいる年上のマルトと恋に落ちる。
頭脳明晰で学校では首席、戯れ時間に読んだ本は、一年弱で200冊、大人びた感覚はこの読書で養われたのではないか。
引用はじめ
「青春時代を愚かしいというのは、そう言う怠惰を経験しなかったからだ。—— 中略—— 歩みつづけている精神にとっては、怠惰などありえない。僕は、ある人の目には空虚に見えたかも知れないあの長い日々以上に多くのものを学び得たことはない。そのあいだに成り上がり者が食卓で自分の動作に気を配るように、僕は自分のうぶな心をじっと観察していたのだ」p.114
引用終わり
実体験より頭脳が先行していると思われた。暴走する肉体の欲求に、自らの驚きと大人になりきれていない自覚があった。まるで悪魔に唆されているように。
「挑発された放縦」p.150
決して怒らない両親と、何も言わない父、体面を取り繕うとする父を「僕」は見抜いていた。
彼を好き勝手にさせておいて、それが恥ずかしくなり、おどしたり、手綱をゆるめたり、息子は父のはっきりした助言を求めていたのだと思うが、父がどうしたいのかが理解できない。自立心を促しているのとは違うと思った。
戦争がなければ、マルトは普通の結婚をしたかもしれない。しかし、戦争が、婚約者ジャックを本当に愛していないと、気づかせてくれたのも事実だ。
十六歳の「僕」を愛してしまった過酷な運命。
この小説は、男性と女性とで見方が違うかも知れないが、年上で婚約者があるマルトが自制しなかったのは問題だが、私は最後までマルトに同情した。心が痛かった。
婚約者がいて、しかも年上、彼女が背負う世間の重圧は厳しい。「僕」が彼女を見抜いて、嘘をついたりふりをしたりするのを、マルトは見抜いていたのではないかと思われた。女性は、実年齢より更に大人だ。
「どちらを向いても、傷口が開いていた」 p.103という、「僕」の言葉は、二人が抱えたものに思えた。
マルトの妊娠も、月数を考えジャックの子ではないかと嫉妬する「僕」、読み手でさえ、二ヶ月早く生まれたのだよ、と言いたいくらいマルコの愛を信じていたのに。
出産、喜びにあふれたマルトが重態、「僕」の名を呼びながら死んでいったという。
生まれた子には、「僕」と同じ名をつけたマルト。
果たして最後に呼んだのは、「僕」の名か、赤ちゃんの名か。
「わたしのことを悪い女と思わないでね。わたしのことなんかすぐに忘れてしまってよ。そうよ、わたし、あんたの一生を不幸にしたくないわ。わたし、泣いているのよ。だってわたし、あんたにはお婆さんすぎるんですもの!」 p.64
マルトの叫ぶ声がまるで聞こえてくるように。