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「鼻」 ゴーゴリ作 感想文

突然、顔の真ん中が無くなったら、まずショックで一歩も歩けないだろう。あぶら汗が身体中を覆い、恐怖におののくと思う。

ありえない事が起こる衝撃、お話の展開が不思議すぎて、「なぜこうなるの?」というのをやめにしないと理解出来ない、とても奇怪な作品であった。

自分の鼻が馬車に乗って行く。なんてことだろう。想像すら浮かばない。

「鼻を折る」、「あいつの鼻をへし折ってやる」という言葉は、相手の慢心、高慢に対して当て擦りの言葉である。

コーカサスがえりの成り上がり八等官コワリョフは、副知事か重要な省の監察官の地位を狙い、花嫁には持参金が十二万がついていないと結婚などありえないという慢心ぶり。

五等官である鼻に向かって、鼻なしで出歩く自分はありえないが、「ウォスクレセンスキイ橋のあたりで皮剥蜜柑を売っている女商人かなんぞなら鼻なしで座っていても構わない」などと
不届きな事を言う人間である。

この思い上がりの鼻をへし折られたと安易に考えるのは簡単なのだが、自分をコワリョフ少佐に置き換えると、このただならぬ状況に、同じような行動を取るかもしれないと思うのだ。

引用はじめ
《ああ、ああ!何の因果でこんな災難にあうのだろう?手がなくても、足がなくても、まだしもその方がましだ。
〈中略〉これが戦争でとられたとか、決闘で斬られたとか、それとも何か俺自身が原因(もと)でこうなったのなら諦めもつくが》岩波文庫 p.102

引用おわり

何で起こったか理由が見つからない。
原因や理由さえ分かれば、時間はかかっても、次に生きる道を見つけることが出来るであろう。

突然事故に遭って死んでしまうことや病気でその経過中に苦しみを理解して行くのとは訳が違う。
不条理、不合理を受け止め、尚自分であり続けることは不可能であり、この醜いまでの狼狽ぶりはわかる気がするのだ。

しかし世間ではコワリョフ少佐の鼻などどうでも良いように、新聞社の広告係の態度からも感じる。

彼が大騒ぎしていることなど、噂になる前は、きっと誰も気づいていないと思うくらい世間は冷たいものであると感じた。

自己の内で静かに受け止めていたら、いつか何事もなく自然に鼻は戻ってきたに違いない。

勘違い、被害妄想は彼の内なる出来事で済んだはずである。

しかし私も同じように大騒ぎするに違いない。きっと大騒ぎする。

ここまでの感想しか述べられない。
不可思議なお話しで、とても難しかった。

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