視界の端の景色の話

 noteへの投稿を始めてから見える世界が変わったと私は思う。投稿を始めてからまだ幾日も経っていないくせに、という話ではあるが。しかしそれでも投稿を継続的にしていると、日常の些細な出来事でもこれはnoteに書きたいな、と思うようになったりあの記事の筆者はこう言う気持ちだったのか、だとか思うようになった。

 こういう現象はブログを書いていたりnoteや他のプラットフォームへアウトプットしているような人であれば経験しているのではないだろうか。私はこの現象によって視界が深くなったと感じるようになった。広くなったと感じるようになったわけではないのだ。

 新たに気づくことができた景色たちは、私がnoteへの投稿をしていなくても視界の端には映っていただろう。ただ、私が注目せずにフェードアウトしていくだけで。この現象はそのフェードアウトするはずの景色に気づくかどうかの違いなのだ。よってこの現象は視界が広がったのではなくてより細かいところに注目できるようになったということである。

 私が17歳くらいの頃、恐らくはその時期が私の視界が最も浅かった時期であるが、その頃の私の視界に映る景色は地獄そのものだった。当時の私がうつ病だったということもあるだろう。当時の私は色すら認識できておらず、白黒の写真の中に住んでいるようだったし、空は灰色のコンクリートの天井にしか見えなかった。念のために言っておくが、私は色覚については健常者である。

 その時期と今を比べると世界の景色は一変している。鮮やかで雄大で深い景色が私には見える。うつ病だった時期と比べて、異なっている点はアウトプットするようになったくらいな気がするのだが。

 たった1000文字程度の投稿でここまで劇的に変わるということは些か不思議であるが、少なくとも一つ言えることがある。今の私は幸せであるということだ。視界の端に映る景色に気づけるようになったことで幸せになったということは、幸せとは細部に潜むものなのだろうか。小学校の国語の教科書だったら、これをかくれんぼと表現していそうだ。

 だが、たまには童心に返ってかくれんぼをしてみようか。どうやら幸福は隠れる側で鬼にはなってくれないらしい。いつだって鬼は私だ。幸福は自分からはやって来ないということだろう。これでもかくれんぼは得意だったのだ。まずは実家があるあたりで、とも思うが今はできない。まずは身の周りから。そこから始めることにしようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?