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友だちほC☻

ここに近況をだらだらと記すのには、なんとなく良い効果がある気がする。
最近気づいたのは、自分の中にわだかまっているものをこうして文章にすると多少考えがまとまり、人とのコミュニケーションの助けになるということだ。
どうしたらコミュニケーションが上手くできるようになるのだろう、どうしたら友だちが増えるのだろう、というのはここ一年くらい考えてきたトピックだが、近頃は以下のような解釈に落ち着いている。

人間は社会を作ることで生存してきた種であり、我々個人の中にある「善」(自然と欲するもの)もすべからく社会の保持や発展に有用なものであるはずである。そして「友だちが欲しい」という「善」への志向は、コミュニケーションを通して相手に「社会にとって良いこと」を伝達、共有することを目的として作動しているものだ。つまり友だちを作るには、「相手に何かを与え、相手から何かを受け取る」という活動に参加するだけの素養を持つ必要がある。つまり、他者に与えられるものを持つことだ。
では私が他者に与えられるものとはなんだろうか。それは、私の持ち合わせている、言い方によっては長所であったり短所であったりありふれていたり特殊だったりする性質から生まれるものである。
なぜかというと、人間は個体によって肉体的にも精神的にも性質が異なる、いわば多様性があるのだが、その多様な人間の、自らの性質に従った営みから生まれる社会への多様な有用性により、社会はまわってきたからである。

つまり、人間を生物として見る・・・進化心理学風な視点で見ることを通して、「ありのままの自分のありのままの欲求に従って、それを究めること」が、人間的な幸福を目指すこともとい友だち作りの近道なのだ、という結論を得たわけである。

だから私は、クラスの人と目を合わせて喋るために、創作やオタクやファッションや生活を楽しくやりたいと思う。PMSや気象病や抑うつを飼い慣らすことが目下の課題だ。

幸せになりたE☻

こういう考え方に基けば、人間的な幸せを手に入れるための方針は少なくともいつでも立てることができる。実際いま私は徐々に幸せになってきていて、それはなぜかというと、人生で初めて幸せになろうと試みているからである。
以前まで私は「幸せになろうとすること」に自分の信念を置くことができなかった。神様に、あるいはこの世の摂理に従うのがものくそ嫌だったからである。それって不条理だしそれに、幸せになれない負け犬より幸せになりたくない変人でいたくもあった。しかし私は新たな道を見出し、幸せになろうとしてみている変人、というアイデンティティの獲得に成功しつつある(自分の中で)。不条理な世界を知るために不条理に従うことをすればいい、それを幸せへの免罪符にすればいいと思ったのだ。

心境が変わったきっかけはやはり、この世の正しさは全て生きるための杖であり、つまりは快い生を目指せば善が手に入るのだということに気がついたことだと思う。
悪がウソじゃないと思われるように、善もウソじゃない。善悪は正しいのだ。正しいから善悪なのだ。善悪を信じることによって生きられるから、私たちはそれを正しがるのだ。真理というのは、人間の脳みその外じゃなく、中にしかないのだ。

それはそれとして、脳みそのことについてはずっと考えていたい。私が見ている全部はそこから来ているはずで、自分が何に縛られているのか、何を見えていないのかくらい知りたい、そしてあわよくば宇宙の外を覗いてみたい。

けれど脳みそを捨てて人間を辞めたい、というモチベーションでは生きていけない。だからこの思いにはもう少し生きてみてから向き合いたい。今すぐに死ぬ勇気がない。

今しばらくは自分の杖を探して、リツイートで社会運動に貢献した気になったりして、生きていく。

善の実践に使います。