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正解は一つしかないんじゃないかと最近思う。

小さな明かりは足元を照らすばかりで、どこまで続くともわからない暗闇が四方を覆っているような心地がする。時折、その闇の中に薄ら浮かび上がるものが、何にも勝る魅惑的な輝きを孕んでいて、その光が控えめに眼に届くだけだ。それは私の心を捉えて離さず、もしそれに触れられるのなら、人生の全てを投げ打ちたい、とすら思わせる。好奇心、知識欲、掻き立てられる感受性。なのに、あまりに無知な私は、身動きが取れない。

無知は選択の権利を奪う。自分の意思で、自分の論理に沿ってどちらかを選んでいるように思えても、それは感情という名の動物性からくる強迫だ。正解がない問いの正解は、解なしだ。

私はきっと選択を間違えるだろう。それはいい。人生は一通りしかない。どんな人生でも良いと思う。どうでもいいという意味でなく、どんな人生でも生きたい。(この思いは平和ボケの極地だと思う。平和に生きる人間だけが感じる、世界のあらゆる苦しみと快さを、上澄みをすくうように手のひらに乗せて、見惚れたいという願い。それは、新たな精神性として、見とめられ認められるべきではないのか、などと考えていた。

平和ボケの脳みそにとって、この世界はカタルシスに満ちているのだ。雨の音、空気の感触、風の匂い、冷たい床。あるいは、人の愚かさ、暴力の求心性、死の纏うドラマ、ひっくり返された食卓。この全てを全身で、粒子のひとつも余すことなく享受したい、湧き上がる情動に身を委ねたい、叫びたい、壊したい、一体になりたい。今すぐに。欲求不満の煮詰まった心で思っている。)

私に与えられていない選択権は、自分の進む道を選ぶことだ。そしてそれは、人生の全てなのかもしれない。私は、もしかすると人間は、いつでもなんとなくの足取りで、岐路を進むことしかできないのかもしれない。何も知らないまま、選択ができないまま、知性を手放して進むことしかできないのかもしれない。それが運命と呼ばれるものかもしれない。合理性から離れる口実。

とさえ思えてくるほどに見通しが立たない。余りにも乱雑な思考しかできない。この苛立ちは何なのか。いつかこの一連の文章の支離滅裂さを笑える日がくるのか。そのとき思考する私は私なのだろうか。なんにもわからない。とにかくこのままだと上下左右もわからぬまま死にそうな気がするので、本を読もうと思う。闇を認識できた今がその時だと思いたい。体系的思考がこの鬱憤を解消してくれるのだと信じたい。おおよその見当をつけて、闇雲にやって、気づけば視界が開けているものなのだと信じたい。寝る。


善の実践に使います。