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無限肥溜め

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活力が底をつきかけている。四六時中気分が悪いのはそのせいだ。悲しみや苦しみを感じた時に「〇〇だから大丈夫」というふうに心を立て直すのに使う理論、信念みたいなものを見失っていて、すぐに取り出せない状況にあり、また腰を据えてそれを再構築する力が湧いてこない。つまり生きることへのモチベーションが枯渇しているといって過言でない。愛や信仰や好奇心などの原動力は人が生きるために持つもので、それらを持ち続けようとする自己メンテナンスへの原動力こそが「生きたさ」そのものなのではないだろうか。私は今全然生きたくないから、元気を出そうとか「正常な」精神状態に戻るためにしっかり休もうとか焦らず省エネでいこうとかそういう思いが全くないし、一生不健康でいいし、ただ目の前のものへの反射的な動作だけが機能していて、歌いたくなったら歌い喋りたくなったら喋り、極短の体力ゲージが尽きれば床を這いずって泣いているし、気まぐれ運転で崖から飛び出す感じの破滅願望がかすかに自我としてあったりするくらいである。とにかく、生きたさっていうものは持とうとしないと持ってられないものだろう。少なくともある種の人間にとっては。生きたさが底をつくという体験、いや「生きたくなさ」に縋る体験を一度すると、何かが決定的に変わるのだという気がする。それは劇的に訪れる瞬間ではなくて気づいたら知っていたみたいな種類のものだと思う。たぶん希死念慮とは違う。ただそれを経るとクソほど生きづらくなるのは確かではないか。生きたいという理想、希望、目標を持たない楽さは半端じゃないし、それを逃げだと言って責める正当な論理もこのカオスな世界にはない。いつでもだれでもこっち側に来れる。甘美な誘惑である。なんだかもう本当に頭が働かない、自分がどういう風にここに立っているのかわからない状態で、歩こうと思えるわけがない。どの言葉も信用できない、言葉だから。一生この薄い毒ガスの満ちてるみたいなしけた部屋で死んでいたい。不変へのあこがれがずっとある。切ない。いいようにしか自分を見れない。切ない。

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法事のため父の実家に帰省をした。全てのデジタルデバイスを忘れて行ったので図らずインターネット断ちができた。父の育った家はど田舎にあり、自然に囲まれていて心地いい。特に夜は、耳を澄ますと都市では絶対味わえないような完璧な静寂があたりを満たしているのを感じられて、とても清々しい気分になる。そういう環境でゆっくり過ごしたのが良かったのか、祖父母や親戚に会って色々考えることができた。古風な親戚付き合いというか、血族の中で助け合うあの感じに対してなんとなく忌避感があったのだが、久しぶりに触れてみるとそれは、私がイメージしていたものよりずっと寛容に思えた。私は今まで数々のコミュニティに馴染めず浮いてきたプロの陰キャだが、親戚の中では会話に混ざれずとも仕事ができずとも、血が繋がっていさえすれば庇護の輪に入ることができる。公共の利益に貢献できなくてもその一員でいられる特殊なコミュニティなのだ。そういう仕組みであるからこそ、私のような落ちこぼれやはみ出しものへの目線の寛容さは実に自然だ。人類の長い歴史のうちでずっと、血の繋がりの中では全てが許されてきたのだということを本能的に感じる。たとえばここ十年で盛り上がっているものなどとは違う、年季が入った「優しさ」なのだ。しかしその優しさだけに縋って弱い変わり者が生き長らえる時代では最早ない。現代ではたくさんの親戚が固まって住むこともないし、加えて、優しさ以外に弱き者の縋るものがそこらに溢れているからだ。SNSは惰性で生きている弱者でさえも幅広い情報に巡り会わせるし、はたまた推しという信仰対象もよくもたらす。限りなくお手軽な思想や宗教が弱き者の支えとなり、弱き者に血族からのお情けよりもそれら自身を選ばせる。けれども何より、それらは肉体を、温かい肌を持っていないのだ。
何が言いたいかというと、インターネットさえなければ私幸せだったかもしれないのに、です。嘘です。

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幸せを生の目標にすることに不自由感がある。また苦しみを生の目標にしたとしてもそこには不自由がある。なぜなら生に目標をたてること自体、一種の幸せを守る手段だからだ。どんなに理性を持ち上げても、それが幸せという快を追いかける道具にしかならないとき、自分の存在がまるごと機械のように思えて虚しい。目の前のニンジンを追うことと理性を駆使して幸せを追うことは何も違わない。私たちは結局、電池のセットされた精密なおもちゃのように、本能というプログラムに沿って動くことしかできなくて、それが人生のすべてだ。不条理以外の何物でもないし、しかも不条理という言葉を使うときに持ち出される理という概念も本能の一部であるから、不条理だという憤りも本能にもたれかかって成り立っているものでしかないのだ。この意識が意識として同じ形を保っている限り私は幸せか幸せじゃないかという尺度でしか世界を見られない。とても不自由で、不幸せではないか。

善の実践に使います。