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ダイイングルーティーン

覚醒

数か月ぶりに抗不安薬を服用してみて、かなり大きなアハがあったので記しておきたい。 

最近じわじわ感じていたことが、「私の脳常に曇ってね?」だったのもある。気まぐれで服薬したところ、即効性のある薬効によりまさに霧の晴れるがごとくサッと不安が引いていった瞬間の、生きる力のみなぎり方たるや、もう相当感動的であった。何でもできる気がしたし、やりたいことがいくつも浮かんできたし、希望が溢れてきたし、一時間で一億ツイートくらいした。

それで思ったのだが、「善く生きる」(=生物として最高効率で気持ちよく生きる)の仕組みって、こういう「抗不安」を自給自足的に、習慣的に、自然な生活サイクルの中で取り入れることで成り立っているのではないか。 

私が言わんとする善については以下の記事を参照してほしい。
記事の埋め込み初めて使ったかも。いいネ!!

人間みな悲しみや苦しみを背負って生きているが、それらのもたらす抑うつによって身じろぎすらままならなくなってるのはみなではない。それは、善く生きている人間は、それぞれの供給源から抗不安を継続的に獲得しているからだ。その供給源でメジャーなのが愛とか社会とか宗教だろうなと思う。

もう少し深く書くつもりだったけどなんか急にだるいから今はいいや。私の理想は目に入るものごとのすべてに明快な定義を与えて生きていくことだけど、今すぐには無理だ。しゃあ~ない。

普通に日記


ここから日をまたいで書いているが、上に書いた気づきに因してか結構調子がいい最近。

元々、自分のルーティーンを構築することが善く生きることだと考えてはいたのだけど、そのルーティーンを作っていくに際して「とにかく抗不安をやる」というのをやればいいのかなもしかして、という指針が持てたからな気がする。ツイッターランドに蔓延る「自分の機嫌は自分でとる」系統の意識の高さは「うるせえ迷惑かけまくって全部壊して死んでやるからな」の方の人格が呼び起されるためかなり嫌いだったのだが、その言説が多分に真実性を含んでいることを、今となっては実感を持って理解できる。

けどね、私がむかつくのは、『「自分の機嫌は自分でとる」が善であること』を内面化しすぎている姿勢なのだ。善は善だけど、善のために宇宙が存在してるわけがないもん。本来私たちは「生きさせられている」のであって「しょうがないから善を信じている」のだ。それを忘れるな。あるいはそれに気付け。それを認知せずに生きることはそんなのもう幸せでしかないから。そうじゃなく、幸せを幸せがってる自分を暗い宇宙から眺めて、一緒に苦しもうぜ。人類を途切れさせよう。神を信じたり神を殺したりしよう。やっちゃおうよ、せっかく人間なんだから。とかつらつらつらつら言うけど、こんなに断言できるほどはっきり考えてはいない。でもはっきり考えてしまうと嘘になる気もする、この主張だけは善になってはいけないはずだから。ともかくまだ素直に生きたくないのだ。まあ今後精査していくよ。それでいいや。眠い。

話を戻すと、ルーティーンに採用することがらをひたすら自分に気持ちのいいことにすることにためらいが無くなってきた。見栄とかがやっと剥がれ落ちてきた。見栄張っても自分は変わらないし変わらない自分に合わせていくことをすべきだと最近は思っている。これが自我の確立ってやつなのかな。

具体的に言うと、大学とか人づきあいとか自分の苦手なことを生活の軸と考えるんじゃなく、家で好きなことするのとか仲いい友達と遊ぶのとかツイッターやるのとかをメインとして捉えられるようになってきた。私はツイッターしてる時の私が一番好きなので、そっちを「本当」の私にするというわけだ。大丈夫かなこれ。大丈夫じゃなかったら教えてほしい。

だから将来もツイッターで暮らしてさえいければいいのかもしれないな。だって学歴とか就職とかどうでも良いということだから。いやどうでもよくはないか。リアルに生きる人がツイッターも楽しくやるみたいにそこはカスタムすべきだ。さすがに100切り捨てることはできない。そのへんのバランスはこれからゆっくり掴んでいけばいいだろう。大事なのは常にご機嫌でいること、抗不安を継続して供給すること、エネルギーを保ち続けることだ。それによって私は善に進んでいく。生き物を全うしていく。

そもそもなんで善がやりたいのかと言ったら、一番の根っこは、「生きる=善」と「死ぬ=悪」の両極を行くことで一番世界が理解できるのではないかという感覚に基づいている。しかしそれは別に確固たるものではない。なぜならそれも一種の善だから。生きている限り嘘を見てしまう。嫌だけど、いつかは死ぬんだからいいかなと思っている。いつかは本当がみられるはずだ。待ち望んでいる。本当を待ち望むとかいう姿勢にも違和感を感じないではない。ちょっと書くのだるくなってきた。いいや。気が向いたらこのへん整理して書きたい。

本当に日記


あと今日父が海外に転勤するって聞いて寂しくて泣いてた。親との別離というのは人類の大半が通る地点だけど、そういう普遍的な人間的な苦しみを感じられたのがよかった。ふつうに生きてる自分を意識することでそうじゃない自分を相対化でき、何か視界がはっきりする心地がある。だからこう、私がやりたいのって生き物と生き物じゃないを行き来する感じなのだ。そんな特別なことでもないけど。

そんでやっぱりファザコンだなと思った。もう言ってしまえば価値観の形成が「父に認めてもらうこと」と「父を否定すること」の二個のみをもとに為されている気がする。
こういうことを言うのってやっぱりタブーに触れてる感覚というかなんか気持ち悪い感じがある。言おうとすればもっと言えるのだけどこれ以上は生き物の私がまずいことになりそうなのでやめておく。

中東に行くらしい。中東の大都市のイメージ、砂漠とオアシスの境界に近未来みたいなビル群があってかっこいい、みたいな感じなので、遊びに行けるのはとても楽しみ。砂漠を歩くのも夢だったし。かなりわくわくしてきた。もう悲しい4:楽しみ6くらいまできてる。数か月に一回しか会えないだろうけど、私は私で頼もしく成長して良い姿を見せられるように頑張ろう。と美しく生きていく生き物。

善の実践に使います。