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[0円小説] 虹色の人生

大爆発が起こる前の、何ものも存在しないただ一点の時空から、まったく唐突にこの宇宙が生まれたとする創世神話を信じるのが合理的な態度だというのならば、それ以外のありとあらゆる奇怪な創造の物語を信じることも同程度には合理的なのだと、ジロウは考えていた。

例えば合州国の原理主義的キリスト者の人々は、進化論を否定していると聞く。けれども、進化論を否定することは別に非合理的な態度ではない。万能の神が存在して、過去のある時点で「あたかも生物が進化してきたかのように見える形で」この世界を創造したのだと考えれば、その信念体系にはどこにも矛盾は生じない。

同様に「世界は平らである」と考えることも、「自分以外の人間はみんなロボットだ」と考えることも、あるいは「自分こそがこの世界を創った神なのだ」と考えることも、そうした様々な常識的にはばかげた信念であっても、すべてに合理的な説明をつけることはできるのだ。

だとすれば、とジロウは考えを進めた。合理性などというものに、どれほどの価値があるというのだろう。

合理性という基準は確かに便利なものだ。西洋の近代というものが合理性という概念に重要性を見出したからこそ、今自分は安宿の寝台に寝転がって、二本の親指で電子小石板の表面の硝子を撫で回してはこうして小難しい言葉の羅列を垂れ流し続けていられるというもので。

けれども、自分は今以上の技術的進歩というものに特別価値を見ていないのだから、合理性などという幻の概念は捨て去ってしまってかまわないではないか。

もちろん、人と意志を疎通させる都合上は最低限の合理性は必要かもしれない。けれども今この瞬間には、そんなことを心配する必要はないのだ。今はただ、自分の心という万華鏡が描き出す、極彩色の曼荼羅絵巻を思う存分楽しめばいいだけではないか。

色褪せてセピア色になった、モノクロ写真の子ども時代の父の写真に、サイケデリックな画像変換を施して、ジロウは言葉によるシミュレーションとして想像した。

三年前の十一月に父は齢九十にしてこの世を去ったのだった。葬儀のとき父方の叔母と話をして、ジロウは数日後に妻と二人、叔母が一人で住む鉄筋造りの集合住宅を訪れた。

そのとき叔母がくれた一枚の写真が、今、ジロウの心の曼荼羅の中心にあるのだった。

三歳の七五三のときに撮られた写真なのだろうか、大岡山の写真館の銘のあるしっかりとした台紙に貼られた、小さなその写真に写る父は、無垢の幼子の顔をしている。

その無垢の幼子を薄められた烏賊墨色の忘却の底に沈めてしまわないためには、呪文の力を借りて極彩色の色曼荼羅として描き直す必要が、ジロウにはあったのだ。なぜかと言うと、ジロウは自分の心の目ではそのような極彩色の像を見ることの叶わぬ人間だったのだから。

目を閉じてまぶたの裏に、自由自在に絵を描ける人はそれほど多くないのかもしれない。けれども多くの人は、多少はぼんやりとしているにしても、何らかの映像を思い浮かべることができるはずだ。

けれどもジロウには、これがまったくできなかった。

小学校のころ国語の時間にお話を読んで、「では目を閉じてこの情景を思い描いてみましょう」と先生が言うとき、ジロウはみんなが何をしているのかどうにも不思議だった。目をつぶって見えるのは、外の光を映して少し赤みのかかったまぶたの裏の暗闇だけではないか。みんな、先生が言うのに合わせて、見てる振りをしてるだけなのだろうか。

頭の中に心像を描く能力の欠如は、今ではアファンタジアという名前で知られているが、これがいくらかでも世間に知られるようになったのはまだこの十数年のことでしかない。

先生がジロウの気持ちに気づかず、級友がしていることがジロウに理解できなかったのもまったく仕方のないことだ。

頭の中ではできない着色の作業をジロウは言葉による空想の中で行なった。

九十年ほど前に大岡山の写真館で無垢の幼子の輝きを放った父が、四年前に世田谷の自宅のベッドで苦しみに歪んだ顔で事切れるときまでの、平凡で、わざわざ書き留められることもなく、あと三十年もすれば息子たちもこの世から去り、そうなればすべての記憶も失われてしまう、人の一生としては十分に長くはあっても、振り返れば一瞬でしかないちっぽけな父の命の軌跡を、ジロウは極彩色の曼荼羅絵巻として今ここに創造しようとした。

ジロウの脳裏には言葉が浮かぶだけで映像は浮かばない。

けれども、このジロウの呪文を誰かが目にすれば、その人の脳裏にジロウの父の虹色の人生が、くっきりと浮かび上がる可能性があるではないか。

青い海に白く波が砕ける熊本は天草の漁村から、大正時代に東京に出て来て建築を志した祖父は、その雑踏の巨大都市にどんな色を見たことだろう。

やがて郷里の娘を嫁にもらい、昭和六年に長男として父が生まれるまでの間に、若い夫婦は帝国の首都でどんな光景を見たのか。

戦争によって子ども時代に東京を離れ、戦後しばらくして高校に入ったのちに東京に戻った父の目には、戦後の復興やバブル後の経済の低調はどのように写ったのか。

同時代を生きた幾百万の無名の人々の人生の糸がもつれ合って、時に陰鬱な、けれども錦の歴史を織り成す、そうした時代の怒涛に押し流されて、今や東京の都立大学駅近くの禅寺の墓石の下で、父の遺骨が見る永遠の走馬灯の夢々を、ジロウの両の親指の先が硝子の表面を踊りながら、文字列の連なりとして綴り続ける。

この世界は意味もない大爆発の結果なのか、それとも万能の神の秘密の企みから生まれたのか、そして今いるここは、無限の暗闇に満たされた真空の只中に浮かぶ青い水球の表面なのか、あるいは平たい大地の片隅なのか、ジロウにはそうした形而上の区別はもはやどうでもよかった。

特別な価値など持ちえない、無力な呪文をひり出し続け、ささやかな幻の世界を創り出すことこそが、今の自分の役目であることをジロウはついに理解して、誰に読まれる必要もない透明な文章にぴしりと終止符を打つと、ためらいもなくそれを虚空に放った。

[2024-03-29 北インド・ハリドワルにて]

☆有料部にはあとがきを置きます。投げ銭がてらお読みいただければ幸いです。

#小説 #エッセイ #コラム #茫洋流浪

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