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「琵琶湖疎水」と「京都インクライン物語」

 最近私の自転車仲間が、定年退職を機に滋賀県を旅した。その途中で、琵琶湖から京都蹴上の間を繋いでいる琵琶湖疎水を「琵琶湖疎水船」に乗って大津から蹴上まで下った話を聞いて、2013年に女房と二人、蹴上から琵琶湖取水口まで徒歩で辿ったことを思い出して、その当時の記録を紐解いてみた。
 
 私が子供の頃、多分社会科の時間だったと思うが、「京都には『インクライン』というものがある」という話を聞いて、それが、まず「インクライン」の「インク」のワードに引きずられ、「黒インクとか赤インクといったインクの線か?」と頭の中に妙なイメージができたことと、挿絵か写真に、斜面に平たい舟が乗った台車の下にレールがあるのを見て、当時は鉄道が好きだったこともあり、そこに目が行ったという記憶がある。

 その後、英語の時間に、「incline:傾ける、傾斜させる」という単語に出会い、「あれっ、これってもしかしたら『あのインクライン』と何か関係ある?」という思いが頭によぎったことも覚えている。

 そして幾星霜、疎水のインクラインを目の当たりにした学生時代か、その後にその両者がN極とS極のように引っ張り合って「ピッタシカンカン&目からウロコ」となったのであった。

 「ああ、台車に舟を載せて、閘門式のパナマ運河のように閘門を開け閉めして、舟の進行に合わせて水位を上下させながら、琵琶湖と京都市内の水位の差を越えて通運するんだな」という位は、この私の頭でも容易に理解できた。

 私には、多くの友人・知人がいて、大学時代から何度も通っている京都は妻も京都の短大の卒業で、新婚旅行も京都・奈良だったというほど互いに京都好きで、このところ毎年紅葉が終わり人影が減り寒さも募り始める頃の京都に一泊で訪れている。

 そして9年前の秋、いつもと同じ京都の旅に向かい、その年は南禅寺あたりから疎水べりを歩いて遡り、途中地下鉄東西線で山科まで移動したあと、妻と二人トボトボと山越えをして、途中疎水のトンネルの竪坑(シャフト)も発見したりしながら、ついに琵琶湖の取水口に辿り着いた。
 その後、また三井寺から浜大津経由東西線で蹴上まで取って返し、インクライン出口から南禅寺水路閣を通り、岡崎の「琵琶湖疎水記念館」まで歩き通した。

 そのような経緯の中で、数年前に女房の書棚に見つけた本が「京都インクライン物語」(田村喜子著 新潮社刊)だった。

 明治黎明期、維新とともに大政奉還がなされ、「天皇はんも東京に行ってもうて」人口も激減し経済もどん底だった京都の町を不死鳥のように蘇らせた三代目府知事北垣国道の発案と多くの地元経済人の尽力により、当時まだ大学生だったにもかかわらず、独り疎水(インクライン)を設計し、見事に実現させた田辺朔太郎が、5年間で見事に疎水が完成させたことをどれほどの人が知っているかということを京都人だけでなく、多くの人に訊いてみたい。

 「疎水べりの哲学の道を散策する」という私の学生時代の甘ったるい思い出なんぞ、どこかに吹っ飛んでしまえと言いたくなるほど、その情緒豊かな疎水がもたらす底力というものを当時の私は全く知らなかった。

 琵琶湖から疎水を引いた結果、世界初の商用水力発電により京都市内に産業を起こし、家々に電灯を灯すとともに、市内に水道も敷くことができた。加えて、琵琶湖と言う水上高速道路を京都に繋げ水運路としての活用することにより、京都のみならず当時の我が国の経済発展にどれほど貢献したことか。

 これ以上は、ここに書けないが、是非一度お目通し頂きたい一冊ではある。

第1疏水にある竪坑(シャフト)は、深さは約47mあり、トンネル工事の
ために山の両側から掘り進むほか、山の上から垂直に穴を掘り、そこから
も両側に掘り進めて工期を早める「竪坑方式」を日本で初めて採用した。
(「日本遺産 琵琶湖疎水」ウェブサイトより)
疎水トンネル入口
「後ろ姿は 買い物か」といった風情で、疎水沿いの山道を行く我が女房
蹴上「インクライン」の線路上に置かれた船を運ぶ台車
琵琶湖取水口
琵琶湖は「一級河川淀川水系琵琶湖」という、れっきとした河川である。
Photo by Kazuhiko Yokoyamama©


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